山頂で見た美しすぎる景色と異世界の入り口
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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:松浦哲夫(ライティング・ゼミ4月コース)
「なに、ここ……」
それ以上の言葉は出なかった。まるで宇宙を見透かすようなどこまでも透き通る深い青と混じりっ気一つない真っ白な世界。他にはなにもない。山頂から見渡す雄大な景色すらない。美しい?キレイ?その通りだが、そんな言葉では表現できない場所に私は立っていた。そこはまるで異世界の入り口だった。
私の趣味は登山だ。登山歴はおおよそ20年。趣味が趣味なだけにこれまで何度か危険な目にあってきたし、命を失うほどの危機にも遭遇してきた。それでもやめる気にはなれない。きっと私は生涯登山家であり続けるだろうと思う。
私にとって登山は心理療法でもある。どんなに仕事が辛くても精神がズタボロにされても、たった1度山に登り山頂からの景色を眺めれば、すべてが悩むにも値しないくだらないことだと思えてくるのだ。毎週土日には近くの山に登り、3日以上の休みを取得した時には寝袋とテント、そして数日分の食料をリュックに詰め込んで山に登った。
登山とは自然と向き合い、季節を楽しむ活動だ。四季折々の登山の楽しみ方があるが、気温が高く装備も少なくて済む夏は、最も登山に適した季節だろう。
逆に最も登山に適さない季節は冬だ。冬の山は雪が積もりやすく、極寒の地となる。そこへ登山に不慣れな登山客がうっかり入山してしまうと、寒さで命の危険にさらされる。それだけではない。雪は山の表情すべてを覆い隠してしまうため、そこに危険があっても気がつかない。例えば滑落だ。雪は切り立った崖すら覆い隠すため、それと気付かずに近づいた登山客を飲み込んでしまう。天然のワナのようなものだ。
そんな危険極まりない冬の山であるが、実は、私は冬の登山が大好きなのだ。なぜか。
冬の山は、その寒さゆえに人間を含めたあらゆる生物が生存を許されない。いわば聖域だ。聖域と化した冬の山は息をのむほどに美しく、あまりにも静かだ。そんな場所へあえて侵入することで、まるで私1人がこの世に取り残されたような感覚を味わうことができる。これこそ究極の非日常ではないか、と思う。
そして冬の山の山頂はまさに聖域の中心だ。そこでは破壊的な極寒の強風が常に吹き荒れ、たった1本の雑草すら生きることはできない。そのためいくら冬の登山用の防寒着を着ていても山頂で長居はできない。ひととおり景色を堪能し、一息つけばあとは下山だ。慌ただしいが、ほんの数分間山頂に滞在するだけで私の心は満たされるのだ。
平日は仕事、休日は登山。そんな生活を数年間続けたある冬の日だった。前の週から計画していた通り、私は自宅から車で1時間ほど走った場所にそびえたつある山に入っていた。冬になると美しく雪化粧をまとう、以前から気になっていた山だった。ただ、奇妙なことにその山についての情報が全くない。ネットの検索にも引っかからないし、登山雑誌にも書籍にもその山のことは掲載されていない。まるでその山だけが意図的に無いものとされているかのようだった。
「面白い、登ってみよう」
そこが未踏の地であれば、登山家の血が騒ぐというもの。そうして山に入ったわけだが、登り始めてすぐに私はここが未踏の地であるとわかった。
ほとんどの山には登山道という名の獣道が存在する。人工的なものではない。長年、人や動物が通り続けることで自然に出来る道だ。通常の登山ではこの獣道をたどって山頂を目指すが、どういうわけかこの山には獣道がほとんど見当たらないのだ。おまけに前日から雪が降り続けて山の表面のほとんどが真っ白に覆われている。山頂に到達するまでにかなりの時間がかかりそうだ。
冬の山に登るためには、それなりの知識と冬の山専用の登山道具一式が必要になる。私は長年の経験によりそのことを熟知していたし、その日の装備も万全だ。どんな山でも登る自信があったし、どんなトラブルが起きようとも切り抜けられる自信もあった。
しかし、この日の登山は私の経験が通用しない場面が多く困難を極めた。獣道がないため道を切り開く必要があったことも理由の1つだが、他にも倒木や崖、岩場を乗り越える必要があった。途中獣道らしき道もあったが、すぐに途切れてまた岩場と崖に遭遇した。その度に相当な体力を使った。
また、有名な山であれば必ず備えているはずの道しるべもない。山頂へルートは手持ちの山地図とコンパスだけが頼りだった。
そうして予想到着時間から2時間近く遅れてようやく山頂に到着した。山頂であることを示す立て札もなかったが、山地図と周囲の状況から判断するとそこが山頂のはずだった。
「ふう、やっと着いた」
ホッと一息ついてリュックを下ろし周囲を見渡す。待ちに待った瞬間だ。しかし、私は自分がそこに立っていること、そして私という俗物がその場にいることへの違和感を感じないわけにはいかなかった。あまりにも美しすぎるのだ。
宇宙をも見透かすほどの深く青い空と混じりっけのない真っ白な雪、2色だけで構成されるあまりにもシンプルで美しく静かなその場所に、私は一瞬にして心を奪われた。これまで何度も冬の山の山頂に立ってきたが、このような景色は見たことがない。冬の山は聖域だが、そこは聖域などというにはあまりにも異質だ。そこはまるで異世界だった。私は図らずも異世界の入り口にたどり着いてしまったのだ。
帰宅後、私は山で撮った写真のデータをすべて消し、山地図をシュレッダーにかけた。きっとあの山は足を踏み入れるべきではなかったのだ。下山を終えた帰り道、私は見知らぬ年配の男性に声をかけられていた。
「おい、あんた、まさかあの山に登ったんじゃないだろうな」
そう言ってさっきまで私がいた山を指差す男性の声は真剣で、怒りを含んでいた。
「いや、違います、あちらの山から下山した帰りです」
私はとっさに別の山を指差して言った。そこは登山客で賑わう有名な山だ。男性はそれ以上何も言わず去っていったが、私の心境は複雑だった。
日本には歴史や宗教上の背景で立ち入りが禁止されている地、禁足地が多く存在する。もし、あの時私が登った山が禁足地だったとしたら、私の身に何らかの報いがあるのかもしれない。考えただけでも恐ろしいが、あの登山から5年が経った今でも私の身に報いらしい出来事は起こっていない。
この世のものとは思えないほどのあの美しすぎる景色は、きっと冬の時期にだけその姿を表す奇跡だったのだろう。もう一度見たい衝動にかられることもあるが、この先私があの山に足を踏み入れることはないし、あの山のことを人に話すつもりもない。
それが、異世界の入り口ともいうべき聖域に足を踏み入れてしまった私が果たすべき償いなのだ。
***
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