嫌われていたんじゃない。――職人としての覚醒の瞬間
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:森昭子(ライティング・ゼミ5月コース)
「気持ち悪い、もう帰れ!」
夫は先輩シェフに胸ぐらを掴まれ、アトリエの空気ごと一気に非常階段へと押し出された。しかし、ここで踏みとどまったからこそ、その後もパティシエとしてさまざまな経験を積むことができた。
あの頃の夫は、毎日が張り詰めた糸の上を歩いているような気分だったという。逃げ出したい気持ちを何度もこらえ、なんとか1年が過ぎようとしていた。そんなある日、ついに先輩の怒りが爆発した。
その日も夫は、怒られないようにビクビクしながら、ただひたすら指示通りに焼き菓子作りの助手をしていた。
だが、先輩の堪忍袋の緒はとっくに切れていたのだろう。
「もう、いい加減にしろ!」その言葉と共に、夫は胸ぐらを掴まれ、外へと放り出された。
「自分は真面目にやっているのに、なぜ認めてもらえないんだろう。きっと嫌われているんだ」――夫はそう思い込んでいた。
そんな夫に先輩はこう言った。
「お前、気持ち悪いんだよ。自分が作りたいお菓子はないのか! 人の顔色ばっかりうかがいやがって!」
「……え、俺が作りたいお菓子……、そんなの作っていいの?」夫にとっては、まさに青天の霹靂だった。
――というのも、夫は、製菓学校を卒業してパティシエになったわけではなかった。大学受験を辞め、たまたま見つけたケーキの配送のアルバイトをきっかけに「お菓子作りって面白そうだ」とこの世界に飛び込んだのだ。
右も左もわからないまま、いきなり銀座の名店に放り込まれた。基礎知識もないまま、言われるままに、まず洗い物から始めた。
1週間もすれば手つきも慣れてきて、「自分もなかなかやれるじゃないか」と思い始めた矢先、背後から突然どつかれた。「いつまでやってんだ?」と先輩の怒声が飛ぶ。
「お前はここに何をしにきたんだ? 洗い物をしに来たのか? お菓子を作りに来たんじゃないのか!」
夫はただ、言われた通りに真面目に焼き型を洗っていただけだった。
「最初からそう説明してくれればいいのに」――そんな不満を抱えながらも、言われるまま仕事を続けた。
そして、焼き菓子部門の助手として、シェフとツーシェフというトップ2の先輩についた。だが、この二人は焼き菓子の作り方も作業の流儀も少しづつ違っていた。夫は、二人の仲が悪いのではないかと感じていたそうだ。
例えば、シェフの先輩はルケイクを焼く前の生地を固めに、ツーシェフの先輩は柔らかめに仕上げていた。夫は、それぞれの先輩に合わせて生地の硬さを変え、なるべく意向に沿うように、怒られないよう必死に作業していたという。
だが、どれだけ真面目にやっても、夫はしょっちゅう怒られた。一方で、言われたことをやらずに自分勝手に見える人の方が、なぜか先輩に怒られなかったのだ。それがどうしても納得できなかった。
そんな「ちゃんとやってるのになんで?」という夫の姿勢に、本気で喝を入れ、胸ぐらをつかんでアトリエの外につまみ出したのが、ツーシェフの先輩だった。
「もうお前は今日帰れ! もう来るな!」と言われたが、夫は「頑張りますから、そんなこと言わないでください」と懇願した。夫は、「絶対に辞めないこと」「どこにでも行くこと」を条件に、この店で働かせてもらっていた。
すると、先輩はさらに問いかける。「お前には、自分の意見はないのか? 人の顔色ばっかり窺って、自分の意見もなくて、俺が「死ね」と言ったら、お前は本当に死ぬのか?」
夫はそれまで、「このお店のお菓子なのだから、ここのシェフが作ろうとしているものを自分も協力して真面目に一生懸命作ればいい」と思い込んでいた。「俺の意見? そんなもの持っていいのか?」その問いは、夫の中の常識を根底から覆すものだった。
翌日、夫は初めて自分の判断で、焼き菓子をオーブンに入れる順番を決めた。 自分が良いと思う焼き色になるよう、それまでのやり方を変えたのだ。1年間助手をしてきたから、オーブンの癖もわかっている。どうせ怒られるなら、自分のやり方で挑戦してみよう。今の自分で勝負してみよう。逃げずに、立ち向かおう――そう心に決めた。
ところが、その日は何も言われなかった。怒られもしなかった。むしろ「やればできるじゃないか」と言われ、その日から怒られることがほとんどなくなった。
やっと職人としての自分の居場所ができたと感じたそうだ。それからは、先輩の顔色を窺うこともなくなり、ただ「美味しい焼き菓子を作ること」に集中できるようになったという。
夫はこの日を境に、真面目に先輩の言う通りに作業し、先輩の顔色をうかがいながら作る人ではなく、一人の職人として、目の前の焼き菓子に責任を持つ人間へと成長していったという。
そんなある日、夫がお菓子を作っていたら、あの激怒したツーシェフの先輩が、作業中の夫の後ろからふざけてちょっかいを出してきた。
思わず夫は先輩の手を振り払い「やめてください!」と真剣に怒ったという。そしてすぐに「しまった、まずい、怒られるかも」と身構えた。
すると先輩は「おっ、いい目してるな、その目だよ、その目!」と言って笑いながら向こうへ歩いて行ったという。
その後、夫はこのお店で焼き菓子のヒット商品を生み出し、毎朝出社するとコーヒーを出してもらえるような待遇になり、周囲からも認められるようになったそうだ。
実はこのツーシェフの先輩は、夫がお店に入って間もなく、もう一つ課題を与えていた。それは「俺を毎朝、笑わせること」だった。夫は、融通のきかないつまらないやつだと思われていたらしい。真面目な夫は、先輩が笑えるようなネタを毎日考えて出勤した。そのおかげで、次第にお店のムードメーカー的存在となり、皆の士気を高めることが夫の強みになっていった。後に他のお店に転職する時には、その経験は大きな武器になったという。
夫の資質を見抜き、能力を引き出してくれた先輩には、今も感謝しかない。
田舎から出てきて、右も左も分からないまま、東京・銀座で一流の職人たちに囲まれて働けたことは、今でも夫の誇りになっている。
あの日、つまみ出されて怒鳴られたことこそが、職人としての自分を目覚めさせた大きな転機だったと夫は振り返る。ただ真面目に言われたことをこなすだけでは、本当の意味で信頼される職人にはなれない。自分の考えや感性を持ち、それを責任を持って表現すること――それこそが、ツーシェフの先輩から教わった「職人としての在り方」だったのだと思う。
《終わり》
***
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