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実は私、鮎があまり好きじゃないんです。でも、そんな鮎が教えてくれたこと……。


 

*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:藤原 宏輝(ライティング・ゼミ 4月コース)

 

「私、鮎ってあまり好きじゃないんです。」

夏になると必ず食卓に並ぶ、旬のお料理。

「そろそろ、出てくるとは思っていたけど」

本当なら「美味しそう!」と思うはずなのに……。

私は毎年、鮎を見るたびに「苦手、嫌い、カッコ悪い、恥ずかしい」と色んな思いでいつも胸がざわついていました。

「来たか」と心の中で呟いた目の前には、こんがりと香ばしく焼き上げられた鮎。

 

その日ランチをご一緒していたのは、マナー講師であり、料理店の女将でもある、尊敬するさやか先生でした。

先生は私の顔を見て、穏やかに微笑みました。

「鮎の苦味が、苦手なの?」

私は、子供のように首を横に振りました。

「違うんです」

少し間を置いて、本当の理由を正直に打ち明けました。

「私、お魚をきれいに食べられないんです。それが恥ずかしくって、いい大人なのにカッコ悪いなあって思ってて」

すると先生は驚くことも笑うこともなく、ただ静かに頷いてくださいました。

 

その瞬間、私の記憶は、幼い頃の食卓へと戻っていきました。

祖母は、いつも私のそばにいてくれました。

学校から帰れば「おかえり」と笑顔で迎えてくれ、転んで泣けば黙って膝をさすってくれる。

祖母の手は、いつも不思議なくらい温かくて柔らかくて、そのぬくもりは今でもはっきり覚えています。とにかく、優しい人でした。

でも、その優しさの中には一本筋の通った厳しさもありました。

「ご挨拶はきちんとしなさい」

「お履き物はきちんと揃えなさい」

「ありがとうは、相手の目を見て伝えるのよ」

「お箸は正しく持ちなさい」

子どもの頃「おばあちゃまは、細かいなあ」と思う事もありました。けれど、大人になった今、その一つひとつが私の土台になっていることに気づきます。

 

しかし、そんな祖母にも、一つだけ私に甘いところがありました。

それは、夏になると食卓に並ぶ‘鮎の塩焼き’などのお魚料理。

食卓に焼き魚が並ぶと、祖母は決まって私のお皿を自分の前へ引き寄せました。

「骨が刺さると危ないからね」

そう言いながら、小骨を一本一本取り除き、身をふっくらとほぐし、一口ずつ食べられるようにしてくれるのです。

私は、それが当たり前だと思って育ちました。

祖母にとっては、大切な孫を守るための愛情だったのでしょう。

 

でも、その愛情が大人になった私を、悩ませたり困らせる事になるなんて、想像していませんでした。

秋刀魚、鮎、ほっけ、鯵……など、姿のまま運ばれてくるお魚を見るたびに、

「きれいに食べられなかったら、恥ずかしい。カッコ悪いし、どうしよう」

そんな不安が先に立ち、私はお魚そのものではなく「できない、恥ずかしい、カッコ悪い自分」の事を、どんどん嫌いになっていました。

だからこの日も「鮎ってあまり好きじゃないんです」と言って、自分をごまかしていたのです。

 

そんな私の話を最後まで聞いた先生は、にっこり笑って言いました。

「じゃあ、一緒にやってみましょう。」

その一言で、不思議なくらい肩の力が抜けました。

先生は、お箸を入れる位置。骨の外し方。身のほぐし方をゆっくりと丁寧に分かりやすく教えてくださいました。

教えていただいた通りに箸を動かすと、不思議なくらいきれいに身がほぐれていきます。

そして、これまで苦手、嫌い。と避けてきた‘鮎の塩焼き’を最後の一口まで、美味しくいただくことができました。

「鮎って、こんなに美味しかったんだ」初めて感じた、この感覚と鮎の本来のお味。

さらに「あなたならできる」という、言葉にならない自己信頼を教えてくださいました。

 

さらに私は、鮎を美しく最後までいただく事だけを克服したのではありませんでした。「できない、カッコ悪い、恥ずかしい」と決めつけていた自分を、少しだけ乗り越えることができたのです。

 

帰り道、先生がこんなお話をしてくださいました。

「以前ね、ある経営者の方に『マナーなんて堅苦しいし、面倒くさいから僕はいらない』って言われたことがあるの。」

私は思わず、笑ってしまいました。

「まさに、昭和のおじさんですね」

すると先生も笑いながら、

「そうかもしれないね。でも、そんな方たちにこそ、伝えたいことがあるの」

とおっしゃいました。そして、こう続けました。

「私は、マナーを教えるというより、思いやりがマナー。だという事を伝えたいの」

その言葉が、今でも私の胸に残っています。

 

先生は料理店の女将でもあります。

お酒が入り、緊張がほぐれた頃、その人の本当の姿が見えてくるそうです。

お箸の持ち方。

店員さんへのひと言。

料理のいただき方。

隣にいる人への気遣い。

ほんの小さな所作なのに、それだけで人の心は近づいたり、離れたりする。

 

私は鮎を前に戸惑っていた自分を思い出しました。

先生が教えてくださったのは、魚の食べ方だけではありませんでした。

人を大切にすること。

自分を大切にすること。

その気持ちを、毎日の所作で表すことでした。

先生は、それを「大人のしつけ」と呼びます。

大人になってからも、自分で自分を育て続けること。その積み重ねが、人とのご縁を育み、自分の人生を豊かにしていくのだと。

 

私は、ようやくその意味が分かった気がしました。

祖母は、私を守るためにお魚をほぐしてくれました。先生は、私が自分でお魚を食べられるようになるまで、隣で見守ってくださいました。

どちらも愛情です。その形はそれぞれ、少し違いました。私は二人から、その両方を受け取りました。

 

また今年も、鮎の季節がやってきます。

今度はもう「鮎ってあまり好きじゃないんです」と目をそらすことはありません。

命をいただくことに感謝し、一口ずつ丁寧に味わいたいと思います。

 

もし、今も「マナーなんて堅苦しい」「面倒くさい」と思っている方がいるなら「それは、あなたの思い込みや勘違いですよ」とお伝えしたいです。

マナーは、人によく思われるためのものでもなければ、誰かを縛るルールでも、気取ったものでもありません。

できなかった私を助け、自分を少し好きにさせてくれた、小さな思いやり、人との関わりの中で必要なものです。

 

だから、私は今日も「大人のしつけ」を積み重ね、学び続けます。

祖母から受け取った愛情を胸に、さやか先生から教わった「自分を信じる勇気」を忘れずに。

一匹の鮎が教えてくれたその意味を、今度は私自身が、誰かへそっと手渡していける人になりたいと思うのです。

 

 

【終わり】

 

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