【連載第43回】 《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》「目覚ましが鳴った、それだけのこと」―“起き上がれない”朝を過ごしていた人が、指を一本だけ動かした日―
記事:内山遼太(READING LIFE公認ライター)
※一部フィクションを含みます。
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朝、起き上がれない。それは怠けているのでも、意志が弱いのでもありません。「起きても、今日という日に、意味を見いだせない」――その心の状態が、体を布団に縛りつけているのです。だから、再起動の第一歩は「起き上がること」ではありません。鳴った目覚ましに、ほんの少しだけ「反応する」こと。指を一本、動かすだけでいい。その、体を起こすにも満たない小さな応答の中に、一日を始めるスイッチは、静かに眠っているのです。
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「朝が、いちばんつらいんです」
Aさん(34歳)は、うつむいたまま、そう言いました。
若くして管理職になり、期待に応えようと走り続けてきた男性です。あるとき、糸が切れるように動けなくなり、うつ病と診断されました。今は自宅で療養しながら、少しずつ、生活を立て直そうとしているところでした。
「目覚ましは、かけてるんですよ。毎晩、ちゃんと。でも、鳴っても、体が動かない。起きなきゃって思えば思うほど、布団から出られなくなって。気づいたら、もうお昼で。……そんな自分が、また嫌になって」
Aさんの朝は、「起きられない自分を責める時間」から始まっていました。目覚ましが鳴る。起きられない。自分を責める。ますます動けなくなる。――その繰り返しの中で、Aさんは、一日のスタートラインにさえ、立てずにいたのです。
「朝、起き上がる」という動作を、私たち作業療法士は、いくつもの小さなステップに分けて考えます。
目が覚める。目覚ましの音を認識する。手を伸ばして止める。体をひねる。上半身を起こす。足を床につける。立ち上がる――。私たちが何気なくやっているこの一連の動きは、実は、たくさんの「小さな動作」の積み重ねです。
心が弱っているとき、人はこの全体を、一気に「起き上がる」という大きなひとかたまりとして見てしまいます。そして、その大きさに圧倒されて、最初の一歩すら踏み出せなくなる。Aさんも、そうでした。「起き上がる」というゴールが、あまりにも遠く、重く見えていたのです。
だから私は、Aさんに、こう提案しました。
「Aさん、明日から、起きようとしなくて、いいです」
Aさんは、驚いたように顔を上げました。
「そのかわり、目覚ましが鳴ったら、指を一本だけ、動かしてみてください。人差し指でも、足の指でも、どこでもいい。起き上がらなくていい。布団の中で、指を一本、ぴくっと動かす。それだけで、今日のあなたは、合格です」
Aさんは、半信半疑の顔をしていました。「そんなことで、意味があるんですか」と。
「あります」と私は答えました。「目覚ましに、体が応える。それは、あなたの体が『今日という日』に、返事をしたということです。返事ができたなら、それでもう、一日は始まっています」
翌週、訪ねると、Aさんは、少しだけ明るい顔をしていました。
「先生、あれ、やってみました。目覚ましが鳴って……最初は、やっぱり体が重かったんですけど。言われたとおり、足の指を、動かしてみたんです。ぴくって。そしたら、なんか……不思議なんですけど、『あ、動けた』って思えて」
Aさんは、続けました。
「指を動かしたら、次は、手も動かしてみようかなって。手を動かしたら、寝返りくらい、打ってみるかって。そうやってるうちに、いつの間にか、体を起こしてたんです。気づいたら、ベッドに座ってました。自分でも、びっくりして」
これは、決して魔法ではありません。
大きな行動は、小さな行動の連鎖から生まれます。最初の「指一本」というハードルを、極限まで下げてあげる。すると、その一動作が呼び水になって、次の動作が、自然に引き出されていく。「起きよう」と力むのではなく、「指が動いたから、手も動く」という、小さな流れに、身をまかせる。
大切なのは、順番を逆にすることでした。「起き上がれたから、一日が始まる」のではありません。「一日に、小さく返事ができたから、いつの間にか起き上がっていた」のです。
そしてもう一つ。Aさんを縛っていたのは、体の重さではなく、「起きられない自分を責める気持ち」でした。「指を動かせたら合格」というルールは、その自責のループを、そっと断ち切るためのものでした。責める理由がなくなれば、体は、驚くほど軽くなるものなのです。
それからのAさんは、少しずつ、朝を取り戻していきました。
指が動き、手が動き、体が起きる。起きたら、カーテンを開ける。開けたら、白湯を一杯飲む。飲んだら、顔を洗う。――一つの小さな動作が、次の動作を呼ぶように、Aさんの朝は、静かにつながっていきました。
「今はもう、目覚ましが鳴るのが、そんなに怖くなくなりました」とAさんは言いました。「鳴ったら、まず、指を動かす。それが、僕のスイッチなんです。今日も一日、ちゃんとここから始めよう、って」
私自身、心と体を壊していた時期、朝がいちばんの難所でした。目覚ましの音が、まるで自分を責める音のように聞こえて、布団の中で、じっと固まっていたことを覚えています。
あの頃の私を救ってくれたのも、結局は、ごく小さなことでした。「起きられなくてもいい。ただ、天井を見よう」。そう自分に言い聞かせて、目を開けて、天井を見る。それだけ。けれど、天井を見られたら、次は窓を見よう、と思えた。窓を見られたら、少しだけ、体を起こせた。あの、はてしなく小さな一歩の積み重ねを、私は今でも忘れません。
つらい朝を過ごしている人に、「頑張って起きよう」とは、私はもう、言いません。かわりに、こう言います。「起きなくていい。ただ、指を一本、動かしてみて」と。
【今すぐできる、再起動の自主トレ】
「起き上がる」という大きな一歩を、うんと小さくほどいた練習を三つ。どれも、布団の中でできます。起き上がることは、いったん忘れてしまってください。
① 「指一本」ルール
目覚ましが鳴ったら、起きなくていい。ただ、指を一本だけ、動かしてみてください。人差し指でも、足の指でも、どこでもかまいません。ぴくっと動かせたら、それで今日は合格です。「起きられない自分を責める」ループを断ち切る、いちばん小さな一手です。
② 起きる前に、「天井→窓」と視線を動かす
体を起こす前に、まず目を開けて、天井を見る。次に、少し首を動かして、窓の方を見る。それだけ。視線を動かすだけの、ごく小さな運動です。「起き上がる」の前に、この小さな一歩を挟むと、体は驚くほど動きやすくなります。
③ 目覚ましを、一歩分だけ遠ざけて置く
これは、前の晩にできる工夫です。目覚ましを、手の届く枕元ではなく、ベッドから一歩分だけ離れた場所に置いておく。止めるために、自然と体が動きます。意志の力ではなく、「環境」の力を借りる。これも、作業療法の大切な考え方の一つです。
もし今、あなたの朝が、とてつもなく重いなら。目覚ましが鳴っても、起き上がれない日が続いているなら。
どうか、自分を責めないでください。起き上がれないのは、あなたが弱いからではありません。今はただ、体が、たくさんの休息を必要としているだけです。
そして、もし少しだけ余力があるなら。目覚ましが鳴ったとき、指を一本だけ、動かしてみてください。起き上がらなくていい。布団から出なくていい。ただ、今日という日に、ほんの小さな返事を、ひとつ。
その一本の指が、あなたの一日の、いちばん最初のスイッチです。そこから先は、きっと、体が覚えていてくれます。
再起動のスイッチは、はるか遠くのゴールにはありません。それはいつも、鳴った目覚ましに応える、指先ひとつ分の距離に、静かに置かれているのです。
明日の朝、あなたは、どんな返事をしますか。
❏ライタープロフィール
内山遼太(READING LIFE公認ライター)
千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。
作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。
終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。
現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。
2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
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