議題のない家族会議
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:熟リンゴ(26 年 9 月ライティングゼミ withAI)
3年前に亡くなった父は、私たち子ども家族を実家に集めたがった。いわゆる盆・暮れ。父から「食事の招待」と称した号令がかかると、私たちには断る権利はなかった。
それが父の事故をきっかけに、実家への集まりが数年間続く“呼び出し”へと変わった。入院、退院、老人施設への入居、転居、そして転居先での最期。気づけば、盆も暮れも関係なく同じ理由で集まるようになっていた。
父に問題が起きたから。
そんな私たちに、また新しい呼び出しがかかった。
母が突然、「もう自宅での独り暮らしが難しい。引っ越したい」と言い出したのだ。
引っ越すと言われても、今は家族の対応で精一杯だ。それに貴重な休みの日を終日費やすのは正直勘弁してほしい―。そんな本音の共有が、きょうだいであらかじめなされた。
シルバーウィークの真ん中。それぞれが休みを調整し、やれやれと実家に集まることになった。
母は持病を抱えている。そのために、うまく歩けず、スムーズに体の向きを変えられないためにしょっちゅう転倒し、胸や顔の骨を折ってきた。
独居で不安も多い。電話をすると、体の不具合や病院の話にしかならない。滅多にないが、時折、切迫した様子で「急に足が動かないの。来て」と電話がかかってくることがある。
ここまでは、いつもの流れだった。
ところが、約束の5日前。母は、まるで別人のような言葉を寄越した。
「最近始めたリハビリが楽しくてね。もう少し続けたいから引っ越しはやめようと思うの」
……え?
あれほど弱々しく「もう無理」と言っていたのに? 私たちが予定を調整して集まることになっていたのに? このタイミングで?
胸の奥で、静かに何かが崩れた。「またか……」そんな言葉が喉まで出かかった。私だけではない。おそらく他のきょうだいも同じ気持ちだったはずだ。その証拠に、母を含めたグループLINEには、誰もすぐに反応しなかった。
これまでなら、ここで家族会議はキャンセルになっていた。でも今回は、私が旅の土産を渡す都合もあり、議題は消えたけれど約束どおり集まることにした。
不思議なことに、ノープランになると、「今日はここまでは話さなければならない」という脅迫めいた気持ちがなくなり、この日は心が平穏だった。いつもなら母の言葉の裏を読んだり、次の対処を考えたりして、心がずっと上ずっていたのに。
でも今日は違った。
そのせいか、出されたお茶菓子がやけにうまい。落花生のゆで具合がいいとか、チーズの塩気にシュガーパウダーが合うとか、そんなことを言い始める。
そして極めつけは、母の一言。
「コナコーヒーって高いの?」
私たちは当然のように「KONAコーヒー」だと思い込み、
「ハワイのコーヒーだよね?」
「ハワイってコーヒー取れるの?」
「さぁ〜知らんなぁ」
「でも高そうだよね」
「だよね」
なぜか全員で真剣に議論した。
最後に母が言った。
「粉のコーヒーが冷凍庫に入ってるから、それ使ってね」
……粉(こな)だった。
チーン。
その瞬間、全員が爆笑した。議題がないと、こんなにもくだらないことで笑えるのかと驚いた。
実はひとつだけ、母にはずっと気になっていたことがあった。祖母が残した大きな着物の衣装ケースをずっと下ろすことができず、中を確かめられなかった。
私と母だけでは到底下ろせなかったが、兄弟に頼むと、談笑しながら片手で運ぶ余裕まで見せてあっさり完了した。下ろせなかった時間の重さは何だったのかと思いながら、いよいよ玉手箱を開ける時がやってきた。
ケースを開けると、古い布の匂いがふわりと立ち上がった。丁寧に折りたたまれた着物、鮮やかな帯、祖母がどんな場面で着たのか想像したくなる柄。母とああだこうだ言いながら広げていると、男たちは衣装ケースの近くにあった子どもの頃のアルバムを見始めた。
そして始まった幼少期談義。
「姉ちゃんのこの服、覚えてる。おしゃれだったな~」「この子、子犬の頃からめちゃくちゃかわいかったよね」「この時、俺は高3か。大学受験中だったわ」
思い出すままに、あちこちで小さな笑いが起こり、部屋中に広がっていた。
家族って、こんなふうに笑うんだ。こんなふうに時間を過ごせるんだ。そんなこと、とてつもなく長い間知らなかった。
そして私たちの帰り際、母がぽつりと言った。
「今日は、なんだか嬉しかったわ。こういう日が、いちばん好きなの」
……え?
寂しいと言えず、弱さを理由に呼び寄せていた母が、そう言った。
ようやく本音が言えた母。本音は、切迫して話し合うような場面で出るものではなかった。こんなふうに話し合わないといけないことなんてなくて、その辺にふと置かれている、そんな日常の物に感覚や気持ちが光を当てたときだった。
その言葉が、これまでの家族の集まりの定義を一気に塗り替えた。
私たちが本当に欲しかったもの。それは強さや弱さで呼び寄せる関係ではなかった。
長いあいだ家族を縛っていた“集まる理由”が、全員からほどけ、溶けていった。
そして思った。
もう私たちには、アジェンダはいらない。
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