【カンブリア宮殿】トヨタ復活劇の全貌/従業員33万人年商25兆円日本最大の企業TOYOTA社長豊田章男
トヨタ自動車の社長、豊田章男さんは「とよだあきお」と読むんですね、「とよたあきお」じゃないんです。
言わずと知れた、トヨタ自動車の総帥。世界一の自動車企業となったトヨタのトップです。
冒頭、豊田章男さんはこんなことを言います。
「私にとってはこの名前で生まれる以外の選択肢はなかった」
「この立場になった以上はより多くの人に車が好きになってほしいと思っています」
ふと、僕は思いました。
たとえば、背が高く生まれると、バレー部やバスケ部に誘われる。
ガタイがよければ、柔道部に誘われる。
あまりに運動神経が良くて、自分の意志とは関わりなく、その道に進まなければならなかった人がいると思います。
「豊田」の名を冠することは、きっとそれ以上のことだったのだろうと思います。
トヨタ自動車の創業家豊田家の御曹司、豊田章男さんに白羽の矢が立ったのは、長い歴史の中でも、トヨタが最も苦しい時代だった。
2008年、トヨタにとって悪夢の年。
9月にリーマン・ショックが勃発。
大根らいの中、年を越して1月、豊田章男さんはトヨタの舵取りをすることになりました。
迎えた決算は4,369億円の赤字。79年ぶりの赤字転落でした。
追い打ちをかけるようにトヨタ・レクサスの事故により、750万台の空前のリコールとなりました。
トヨタ非難が世界に広がりました。
リコール問題で、豊田章男さんはアメリカ議会の公聴会に呼ばれて、吊し上げられました。
「全ての車には、私の名前が付いている。全力で信頼を回復させるつもりだ」
追い打ちをかけるように、2011年3月11日、東日本大震災が起きます。
宮城に新工場を設立したばかりのトヨタは大打撃を受ける。
7月、タイで大洪水。工場が操業停止。
さらに70円台の超円高が追い打ちをかける。
「ひとつトンネルを抜けるかなと思うと次が来た」
これでもか、これでもか、これでもか、これでもか、と創業家の御曹司には試練が襲い掛かります。
アメリカでのリコール問題で公聴会に行くとき、社長として帰って来られないと思っていました。
しかし、
「試練に直面して、トヨタの名を冠して、はじめて役に立てると思った。やはり、トヨタが好きなんです」
と、スタジオで豊田章男さんは当時を思い出したのか、うっすらと涙を浮かべます。
孤立無援。誰もサポートしてくれると思っていなかった。
四面楚歌。袋叩きに逢いに行くのだと思った。
ところが、トヨタの車を売ってきたディーラーたちから温かい声をかけられる。
「このトヨタのピンチに、私たちができることはなんですか?」
サポートがないと思っていた。けれども、リコール事件を経てもなお、トヨタを信じてくれている人たちがいた。
それも、大勢いた。
豊田章男さんがメディアの前にも関わらず、男泣きに泣いたのは、そんな事情があったからだ。
しかし、2014年5月の決算発表に世界は衝撃を受ける。
売上高25蝶円。営業利益2,3蝶円。6年ぶりとなる最高益。
2013年の販売台数世界で初めて1000万台突破。
まさに、REBORN。
それまでには、トヨタでは何があったのでしょうか?
復活のために、豊田章男さんが掲げた目標は実にシンプルなことだした。
「もっといいクルマをつくろう」
この言葉がトヨタを激変させました。
それは、技術者にとって「ベクトル」とでもいうべきもので、技術者にとってそれが指針となりました。
それでいいんだと技術者たちは同じ方を向いた。
トヨタが掲げるのは、
「FUN TO DRIVE AGAIN」
じつは、このスローガン、豊田章男さんの父、豊田章一郎氏が80年代に掲げた「FUN TO DRIVE」を引き継いだものでした。
奧田、張という拡大路線ではなく、なぜ、豊田章男さんは父の標語に戻ったのか。
「企業が大きくなったら、原点を忘れてしまう。そこで原点を思い出すためにその標語に戻った」
クルマに乗ることの楽しさを再び思い出そうと思ったからでした。
その象徴が、衝撃的なピンクのクラウンだった。
「ワォ!と思う車を作りたかった」
「たくさん車を作っている会社と言われるよりも、いい車を作っている会社だよねと言われたい」
「トヨタの年輪」の実力、という言葉を豊田章男さんは使いました。
奧田・張路線は、年輪以上に伸びていた。今は実力通りのトレンドに戻った。
そして、去年、最高益を出す。
豊田章男さんから遡ること3代前、トヨタの創業者豊田佐吉は、1867年静岡に生まれました。
豊田佐吉は発明家であって、元々、ベンチャーでした。
「効率がよく、良い物を作る」
そうして作ったのが、G型自動織機でした。
その技術と魂を自動車に注ぎ込んだのが、その息子、豊田喜一郎でした。
豊田自動織機の会社の中に「自動車部」を設立。
それが今のトヨタ自動車の前身となりました。
喜一郎は父佐吉が築いた莫大な財産を自動車に注ぎ込んだのです。
豊田佐吉も、喜一郎も、ものづくりの人でした。
ベンチャー精神を持っていた人でした。
父親に佐吉と喜一郎のことを教えられたことがあった。
「なぜ佐吉は発明をしたのか。ひとつはお国のためだった。しかし、それはいまいちピンと来ない。もうひとつは夜なべをしていた母親に楽にさせたいという想いが強かった。それが発明につながった」
喜一郎の時代に関してはこう教わったと言います。
「決して成功物語にするんじゃないぞ。ひとりでやったんじゃないぞ。みんなの力があったからこそ、自動車会社ができた」
番組を観ていて、僕は正直、拍子抜けするような想いを抱いていました。
なぜなら、極めて当たり前のことを言っているからです。
「もっといいクルマをつくろう」
「効率がよく、いいものをつくる」
「母親を楽にしたい」
実に当たり前のことを言っているのです。
特に、派手な言葉を使っていない。
だからこそ、従業員の心に伝わるのかと思いました。
「年輪」を積み上げて来たトヨタには、シンプルな言葉で十分だったのではないでしょうか。
「原点に戻ろう。そう、自分たちは真面目に正しいことをしてきた。それに自信を持とう」
だから、別に、劇的なこと、劇的な言葉を必要としなかったのではないでしょうか。
年輪を増やすようにして着実に成長していく。
それが、何よりの信頼となる。そして、それが何よりのブランドとなる。
天狼院をかえりみて、ふと、僕は思いました。
急ぎすぎているのではないか。
でも、違うな、と思ったのです。
なぜなら、僕は創業者です。豊田章男さんのような御曹司ではなく、ベンチャー企業の創業者で、佐吉のように発明家タイプでなければならない。
その「発明」、ひとつひとつがやがて年輪となり、盤石のブランドとなるのだろうと思ったのでした。
いや、本当に勉強になりました。
やはり、答えは日本にあるのかも知れません。