蛇に睨まれ、治った遅刻
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記事:小池恵美(ライティング・ゼミ平日コース)
「……てめぇ、次はねぇからな」
店長に言われたこのひと言で、もう一生治ることはないと思っていた私の遅刻癖は止まった。
赤ちゃんの頃から、夜は寝ない、朝は起きない子どもだった。母が書いていた私の育児日記には、深夜0時を過ぎた頃に「やっと寝た」という文字が並んでいた。小学校も毎日ギリギリで、全校生徒が参加しなければならない朝のマラソンに間に合うことはほとんどなかった。大学の一限もほぼ行けず、フリーターになってからは夜間の仕事しかしなかった。できなかった。人と会う約束に間に合ったことがなく、信用もなく、友達もいなかった。
遅刻する人は時間を気にしていないんでしょ、と言われたことがあるが、少なくとも私は気にしていない訳ではなかった。いつだってちゃんと行こうとしていて、やっぱり時間通りに着かない自分が本当に情けなくて吐き気がするほど嫌いだった。自分で自分が信用できなかった。朝、起きて時計を見た瞬間、何度も死にたくなった。寝たら起きられなくなると思って寝ないで行こうとしたけれど、ほとんどは明け方、1時間だけ横になろうと思って、起きてはやはり絶望することの繰り返しだった。自分に時間は守れないと思った。人との約束を守れない自分はダメな人間だと思った。だから、その職場を選んだのも出社が13時だったからだった。
上司は爬虫類の目をした人だった。色素が薄くて、黒目が小さくて、笑顔が怖かった。元暴走族の総長という噂だった。優しいけれど、店長といると緊張した。
職種は営業だったので、まずはセールストークを覚える必要があった。店長のトークを音声に吹き込んで、持ち帰って聞く。13時に出社して、21時くらいに帰った。帰ってから練習して、明け方には寝ていた。12時過ぎに家を出れば間に合っていたから、遅れることはない……はずだった。
入社して一週間が経った頃、起きたら12時をとっくに回っていた。「まずい!」と思い、急いで支度をして会社に行った。13時には朝礼が始まる。会社に着いたときには、5分、遅れてしまっていた。
あぁ、やっぱりまたやってしまった、と思った。5分だし、という気持ちもなかった訳ではなかった。5分「くらい」と思う気持ちが、多分、どこかにはあった。
そして言われたひと言が「てめぇ、次はねぇからな」だった。
その日から、「朝礼に間に合うように出社すること」が私の最大にして唯一の仕事になった。間に合えばあとは何でもいいと思った。セールストークの練習もしなくなった。とにかく、起きなければならない。起きるためには、寝なければならない。そこからぴたっと、私の遅刻癖はなくなった。
遅刻をしなくなって、以前の私は根本的に間違っていたんだとわかったことがいくつかある。
ひとつは、「着く時間」を守ろうとしていたこと。以前の私は「職場に13時」と言われたら、13時にそこにいることを守ろうとしていた。出る時間が遅くなってしまったら、駅まで走ろう、もしくは電車を降りてからダッシュしようと思っていた。でも、遅刻しなくなった私が守るようになったのは、着く時間ではなく、家を出る時間だった。13時に職場にいるために、間に合う電車に乗るために、間に合う時間に家を出る、ということを徹底した。家を出る時間さえ守れれば、職場に着くのが遅れることは不思議となかった。それが当然なのだろうけれども、遅刻していたときにはわからなかった。
もうひとつは、始めることよりもやめることが大切なんだということ。遅刻しないためには、間に合う時間に起きなければならないのだけれど、起きるためには、寝なければならない。寝るには、それまでにやっている何かを、時間になったら途中でやめなければならない。今でも私にはそういう傾向があるが、今、やっている何かを時間までに、もしくはキリのいいところでやめるということが非常に難しい。漫画なんて読み始めた日には、どこで止めたらいいのかわからなくなって、寝られなくなる。当然、起きるのがつらくなる。当時の私は、セールストークの練習を捨ててとにかく寝るという方法を取ったけれど、そのとき気づいたのは、寝たら起きられるんだなという当然のことだった。前のことを止めたら、次のことは始められるんだなと思った。何かを時間通りに始めるには、その前にやっている何かを、途中で止める強い意志が必要なんだと思った。
その後、子どもが生まれて、毎日時間通りに保育園に連れていく私に夫も親もびっくりしていたが、いちばん驚いているのは私だ。時間を守るなんて一生できないと思っていたのに。あんなに毎朝、絶望していたのに。
営業に行って売れずに帰ると机を蹴りながら怒鳴られたりしたけれど、今、私が普通に生活ができているのは、紛れもなく、あの店長のおかげだ。店長がもし、くまのぬいぐるみみたいな瞳をしていたら、きっと今の私はない。店長の目が爬虫類みたいで本当によかった。
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