もしもホームドアがあったなら、ハンカチ王子には出会えなかった
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:國正 珠緒(ライティング・ゼミ日曜コース)
「冷たい……」
最初に感じたのは頰に当たる金属の冷たい感触だった。
体が重く動かない。地面に貼り付いたような感覚。右手は体の下だったので動く方の左手で頰を触ってみた。
「ヌルッ……」
真っ赤な液体で手が染まった。
「まもなく電車がまいります」
聞き慣れたメロディのあとホームアナウンスが聞こえた。この時初めて私は自分の置かれている状況を理解した。
30分ほど時間をさかのぼってみよう。その朝は大学の研究室の先輩の卒論の手伝いをした後の徹夜明けだった。
「お疲れ様、気をつけて帰れよ! 良いお年を!」
「は〜い! 先輩も良いお年を!」
バタン! とドアを閉めて足早に研究室を出た。
「やった! 冬休みだ!」
いつもなら少しきつく感じる駅までの10分あまりの登り坂も、徹夜明けのナチュラルハイと明日から冬休みという開放感で楽勝だった。大井町線2駅で自由が丘に着き、東横線へ乗り換える階段を上った。ホームに着いたところで左に曲がり、すぐにUターン……。そこで記憶が途切れていた。
そうだ、そのあと落下したのだ!
意識を「今」に戻す。
線路は相変わらず冷く静かだった。車輪の音は聞こえなかった。
「ほっ。助かった! 電車が来ているのはこの線路ではない。確かここは急行の線路だ。少なくともあと5分は電車は来ない」
当時の東横線は急行と各駅停車しかなく、急行は4本に1本くらいだった。今来ているのが急行の直前の各駅停車だとしても次の急行までにはあと5分はあるはずだ。急に頭が冴えて来た。
「自殺だと思われたら嫌だなあ」
「このままだと目が腫れてコンタクトレンズが取れなくなるかも」
頭が回るようになると、そんなどうでも良い事ばかりが巡った。相変わらず体は地面に貼りついたままだ。
「ドスッ!」私のすぐそばに何かが落ちた。いや落ちたのではない、飛び降りたのだ。それは一人の若い(と思う)男性だった。
「大丈夫ですか?」
その人は私の方に覗き込みながら聞いた。大丈夫ではなかったけれど
「は、はい」
彼はそのあとすぐに
「これを……」といいポケットから真っ白な紳士物のハンカチを取り出して差し出した。私がそれを受け取るとほぼ同時に「ぐわっ!」とお姫様抱っこのように抱きかかえて立ち上がった。
そしてそのまま立ちすくんでしまった。
さすがに私を抱えたままホームに上がることはできなかったのだ。
若い男性が顔から血を流した女子大生をお姫様抱っこして線路に立っているのだ。間違っても「ヒューヒュー!」な状況でないことは誰の目にも明らかだった。
この時になってやっと緊急事態に気づいた駅員さんが私たちのところに駆けつけてきた。そして男性に両手を差し出して私を受け取ってくれた。お姫様抱っこリレー。
駅員さんは男性に名前を尋ねたが「いえ、名乗るほどでは……」と言い、すぐに立ち去ってしまった。格好良かった。まるでドラマに出てくる人みたいだった。
担架で駅員室に運ばれる頃になってやっと顔と全身に猛烈な痛みが襲ってきた。それまでの人生で感じた中で一番の痛みだった。
おそらくそれまでは冷たさと恐怖と不安で痛みなど感じる間がなかったのだと思う。痛みに耐えながら
「自殺じゃありません。コンタクトレンズを早くはずしたいので水を入れたコップをください」
担架の上で叫び続けていた。
駅員室に着きコンタクトレンズをはずしたら、名前、住所、電話番号、大学名などを聞かれた。携帯などない時代なので伝えたのは家と大学の研究室の電話番号。
駅員さんが母に電話しているのが聞こえた。
「お嬢さんがホームから落ちられまして……」
駅員さんそこで止まっちゃあダメだよね。一気に「無事なのですが、念のため救急車を呼びました」まで言わないと……。母は最初私が死んだと思ったそうだ。
怪我は思いの外大したことなかった。落ち着いたら立ち上がれるようになっていたが、用心のため救急車に乗った。
レントゲンもMRIも異常がなく、すぐに病院からは追い出されてしまったので迎えに来ていた母が到着するのを待って一緒にうちに帰った。
腕時計は針も文字盤もムーブメントも全部吹っ飛び、下の座金の部分とベルトしか残っていなかった。そのことに気づいたのはタクシーに乗ってしばらく経ってからだった。
1986年の暮れも押し迫った日の事件だった。
あれから30年……。今から2年くらい前のことだったと思う。ある日出かけようと、うちの最寄りの巣鴨駅に行くとホームドアが完成していた! ついに! 結構長いこと工事中で半年くらい遅れての完成だった。
ホームの両側が1.2mくらいの壁で囲われているのを見て、喜びで胸がいっぱいになってしまった。
「これで安心だ!」
実はあの事故以来、駅のホームに立つと
「また落ちてしまうのではないか」
「誰かとぶつかって落としてしまうのではないか」
という不安が時おり押し寄せてくるようになっていた。ホームドアの付いている駅ではそんなことは考えなくて済む。毎日使う駅にホームドアがついたことは本当に感慨深かった。
池袋、新宿など大きな駅でもホームドアがついていない駅はまだまだ多い。一日も早く日本中の全ての駅につきますように。
あの日のハンカチの君はお元気だろうか。
顔はちゃんと見られなかったのに、勝手に竹内涼真のような爽やか青年として私の心には残っている。差し出してくれた白いハンカチの眩しさと共に。
血だらけの私をお姫様抱っこして救ってくれたハンカチ王子よ。
その節は本当にありがとうございました。
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