すこやかなる呪いの習慣
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:林絵梨佳(ライティング・ゼミ木曜コース)
人生でただ一度(今のところ)、他人を激しく呪ったことがある。
今でも思い出したらたびたび呪うようにしている。
自分の手を汚して殺したいとは思わない。
早く死んでくれとも思わない。
ただただ、彼女の死に際が酷く惨めなものでありますように。
昔、私はとある公共施設で働いていた。
そこにはボランティアスタッフが140名ほど在籍していた。
皆さんお仕事や子育てから解放され、何か文化的な活動をしようという意欲的なご高齢の方がほとんどだった。平均年齢70歳ほど。
私は彼らのシフトを考えたり、勉強会を開いたりするコーディネーターをしていた。
その時の上司がとんでもなく怒鳴りつける系の女性だった。
怒号が飛び交う度にどんどん人が辞めていき、私も何をしても怒鳴られる役回りとなった。
しかしその職場はとても好きだった。
ボランティアの方々の多くはちょうど私の祖父母くらいの歳で、本当の孫のように可愛がってもらった。自然に詳しいおじさんから木や花の名前を教えてもらったり、おばさま達の輪の中で世間話したり、とても和気藹々とした暖かい空気の現場だった。
施設の職員さんも親切で穏やかな人が多く、怒鳴り系上司は本社からたまにしかやってこないのでそれ以外は結構楽しくやっていた。
そんなある日、母方の祖母が危篤になった。
祖母は元々脳梗塞で何度も倒れていて、ずっと介護生活だった。
倒れてはリハビリし、何度も復活していた。
ずっと車椅子生活だったのに杖をついて少し歩けるようになった時は驚いた。
祖母は体は弱いが生きることへの「執念」は誰よりも強いのだ。
そんな祖母がいよいよもうダメだという報せが入った。
祖母に直接会うまでは信じていなかった。
また、医者も驚く生命力で復活するのではないかと思っていた。
だって、来月の祖母の誕生日は古希祝いだから、みんなでディズニーランドのホテルのバイキングに行こうねって約束していたから。
おばあちゃんの好きなステーキいっぱい食べようって言っていたから。
でも病院に駆けつけ、たくさんの管に繋がれ、白く濁った目をした祖母に会い、医者の言葉を信じざるを得なくなった。
何より、病室から「死」の匂いがしたのだ。
「もってあと1週間ぐらいです。脳がほとんど死んでいるので意識はもう戻りません。動いてもただの反射です」
別室で母と叔母と叔父と、医者から説明を聞き、諦めをずっしり背負って病室に戻る。
帰る前に祖母と二人きりになったので、動かない祖母の手を握りたくさん話しかける。
「もっとたくさん話したかった。若くて綺麗で自慢のおばあちゃんだった。大好きだった。天国で会ったらおじいちゃんにも大好きだよって伝えてね」
祖母の瞼は半分開いているが右の目と左の目はそれぞれ別の方を向いている。
今更言ったってどうしようもない。どうしてもっとたくさん会いに行かなかったのか。
「もう行くよ」
と母に促され、病室を出る。とぼとぼと廊下を歩いていると突然
「あーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!」
とものすごい叫び声が廊下に響き渡った。
祖母の声だった。
慌てて病室へ駆け戻る。祖母は私達が帰ってしまうのがわかったのだ。
意識がある。私の話を聞いていたのだ。
祖母はまだ、生きている。
それから祖母は医者の余命宣告を踏みにじるように1週間、また1週間、さらに1ヶ月、70歳の誕生日を病室で迎えて更に2ヶ月……、と結局3ヶ月ほど生き続けた。
医者も宣告した手前なんだか気まずそうだった。
その3ヶ月間は地獄だった。
平日は仕事へ行くが、いつ祖母が亡くなるかわからないので気が気でない。
母と叔母が交代で毎日看病に通っていた。
休みの日は母と電車に揺られバスに揺られ病院に行く。
行く度に「死」の匂いは濃くなっていった。
排泄物と吐瀉物と汗や涙あらゆる分泌物とアルコールと、ただそれだけではない何かが混じって「死」としか形容できない匂いがした。
祖母の病棟はもう助かる見込みがない重篤な患者ばかりが入る棟だった。
そこに足を一歩踏み入れると凄まじい「死」の気配が襲い、グッと踏ん張らないといけなかった。
延命治療をしない方針の病院だったので祖母に繋がれた管は通う度に少しずつ減り、栄養補給の点滴も外れた。
ついには最後の一本、水分の点滴すら外された時はさすがに
「そんな、餓死みたいな死に方なの……」
とショックを受けた。
ミイラのように渇いていく祖母を毎週確認しに行く日々が続いた。
帰りの電車の中、小さく丸まり、白髪が増えた母から、祖母と同じ匂いがしていることに気付き、怖くなった。
「やめて、おばあちゃん。お母さんはまだ連れて行かないで」
後から聞いたら叔母からも同じ匂いが出ていたらしく、叔父も同じように懇願していたとのこと。
最期の月、母と叔母はもう半分死人で、私も「死」の匂いにだいぶやられていた。
私はもうずっと祖母の側にいたかったので、しばらく仕事を休みたいと申し出た。かつて祖父の死に目に会えなかったことを後悔していて、せめて、祖母が生きている内は側にいてあげたいと思った。
しかし返ってきた上司の言葉に絶句した。
「まだ亡くなった訳じゃないんだよね?」
呆然としている私に畳み掛けるように上司は散弾銃を放つ。
「部長はね、仕事でお父様の死に目にも会えなかったの。本来お仕事っていうのはそういうものなのよ。林さんまだ若いから社会の常識とか責任とかわからないんでしょうけど」
そう、私は若かった。
大声で早口でまくしたてる上司に気圧され、何の反論もできなかった。
今だったらはっきり怒鳴り返すことができる。
「頭おかしいんじゃないの? 生きてる内に会いたいって言ってんの。大切な人の死に目に会えない事を美徳にして悦んでるド変態会社なんてこっちから辞めてやるよ!! このクソ××××○○○(自粛)女が!!!」
と、どうして言えなかったのか。
仕事中に、祖母は静かに息を引き取った、と母から連絡があった。
結局なんだかんだで私はその職場をクビになった。
ささやかな反抗として、勤務最終日に約140名ものボランティアさん全員に手書きの手紙を書いて渡した。なるべく一人一人の具体的なエピソードを文中に入れて。
私がいなくなった後、そこにぽっかりと大きな穴が開くように。
その作戦は大成功だったらしく約140名のおじいちゃんおばあちゃんが「林さんロス」になり、職場は「どうして林さんを辞めさせたのか」というクレームで殺到したらしい。
しかし私の復讐心はそんなことでは全然収まらなかった。
私はあの時何も言い返せなかった後悔を一生背負っていく。
仕事はクビになってもいくらでもある。
私の祖母の命は一つしかなかったのに。
どんなに願ってももうどこにもない。
そんな簡単なこともわからなかった、否、わかっていたのに怖くて行動できなかった、愚かな、若かりし私。
だからたびたび思い出す。
彼女への呪いは私への自戒でもあるから。
でも私だけじゃ、抱えきれないから、お願い、せめて呪わせて。
すこやかに生きるために、呪いにのせて、死を想う。
死を軽んじる腐った人間にはなりたくない。
なるべく清らかに、爽やかに、微笑みすらたたえて、今日も呪う。
どうかあの女の死に際が酷く惨めなものでありますように。
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