【京都天狼院物語〜あなたの心に効く一冊〜】第四話 人と上手く接することができないあなたへ 前編≪もえりの心スケッチ手帳≫
文:鈴木萌里(京都天狼院スタッフ)
11月の京都は、電車もバスも溢れんばかりの観光客でてんやわんやだ。
京都天狼院書店にアルバイトに行くまでの間も、電車に乗れば団体の観光客が列をなし、バスに揺られていれば、
「扉付近の方は前方に詰めていただくよう、お願いします」
とバスの運転手さんの、柔らかいけれど若干面倒だという声色でアナウンスが飛んでくる。そういう混雑した電車やバスの中で、人と人に押しつぶされそうになると、自分の居場所なんてないように思う。
公共交通機関に居場所なんて求めるな、という意見は至極最もだろう。
うん、私もそう思う。
しかし、不安になる人だってきっといる。
居場所がなくなることを極度に恐れている人だってきっと——。
「おはようございます!」
アルバイトを始めてからはや3ヶ月、接客やお客さんとの会話に緊張することもなくなった。それどころか、今では自分自身も天狼院が主催する単発のイベントやゼミに参加しているところだった。
「もえちゃん、おはよう」
午後一時半、「おはよう」を言うにはいささか遅い時間だけれど、ここでの暗黙のルールだ。出勤時には朝だろうが昼だろうが夜だろうが、必ず「おはようございます」と言う。いわば、ルーティンのようなものだ。これがなければ始まらない。みんなにもあるよね、そういう自分や自分たちだけのルール。
「いらっしゃいませ」
今日は久しぶりに日曜日にシフトに入った。いつも入っている平日の同じ時間帯と比べると、日曜日の京都天狼院は別世界だ。平和で穏やかなプライベート空間が、期間限定激レアスイーツを売り出す超人気店に生まれ変わったかのよう。まさに戦場。何が言いたいかと言うと、休日ティータイムはとにかく忙しいというわけだ。
「1番、2番、3番……」
次々と迫り来るお客さんに渡す番号札が、一瞬のうちになくなる。
シフトインしてから最初の二時間くらいは、本当に忙しくて、レジ対応をして注文されたものを作り、提供する。それだけでくたくたになるぐらいだった。
「はあ〜」
夕方、ようやくお客さんの波が引いてひと段落。
平日がゆったりしている分、休日の忙しさに慣れていない私は、またしてもてんやわんや。一方、一緒に接客をしていたナツさんは少しも疲れた様子もなく、涼しい顔をしている。一体どうして? ナツさんだって私と同じくらい、いや私と違って事務作業もあるため、私以上に忙しいはずなのに。これはもっと修行せねば……と思い知らされる瞬間だった。
「あの」
レジカウンターで一息ついてから本の整理をしようと思い立ったころ、不意に声をかけられて私はびくっと反応した。
「まだ、来てない」
「え?」
チェックのスカートに紺色のセーターを着たそのお客さんは、たぶん高校生ぐらいで、髪の毛は赤茶色くてパーマがかっていた。
彼女が発する「まだ来てない」の意味が理解できなかった私は、咄嗟にはてな顔を向けてしまう。
それが彼女の気分を害したのか、女の子の表情がみるみるうちに硬く強張っていくのを見た。
「あたしが頼んだワッフルとカフェラテ、まだ来てないんですけど」
あっ、と声を上げてしまった時にはもう遅かった。
「もう、いいです」
と、切り捨てるようにそう言うお客さんの声が、私の脳にずどーんと直撃していた。
「ま、待ってください」
これはまずい。お客様を待たせた挙げ句の果てに怒らせてしまった。代金は前払い制なのですでに支払ってもらっている。完全に私のミスだった。
今にも振り切って店を出て行こうとする彼女に、私はせめてお金を返したいと思い、レジを開けるものの、焦っていたせいで一体彼女にいくらお金を返せば良いのか、咄嗟に調べることができない。
「お客様、お待ちください」
その時、厨房の奥からナツさんの落ち着いた声が聞こえた。
ナツさんの声に、女の子はふっと足を止めた。
「お待たせして申し訳ありません。すぐにお持ちしますので、こちらでお待ちください」
どうぞ、とナツさんが一階のこたつ席に、彼女を案内した。不思議なことに、不満顔ながらナツさんの言葉には素直に従うお客さん。
この一連の流れに、私はなんとも言えない気持ちになる。嫌われたのだろうか? そうだとしても、ミスをした自分が悪いのだ。
心の中で自問しながら、私は彼女がナツさんの言うことに素直に従ってくれた本当の答えを知っている気がした。
たぶんきっと、ナツさんが持つ、柔らかだけれど芯の強いオーラがお客さんの心を動かしたのだ。いまの私には到底できない。
多少メンタルがやられつつ、注文の品をせっせと用意する。
ワッフルはキャラメルナッツとチョコベリーの二つの種類が存在するが、女子高生のお客さんが頼んだのは、チョコベリーだったはず。ワッフルを焼いてベリーを載せる。お詫びの気持ちも兼ねて、少し多めに。チョコソースをたっぷりかけて生クリームを絞った。ふんわり焼けたワッフル生地の香りが、ミスして凹んでいた私の心を慰めてくれる。
「お待たせしました。先ほどは満足な対応ができず、申し訳ありません」
こたつ席に両足を埋めて座っていたお客様のもとへ、できたてのワッフルとカフェラテを運ぶ。
ことっ。
彼女を刺激しないように、そうっとお盆をテーブルの上に置いた。
「……いや」
てっきりまた怒られるか尖った声が飛んでくるかのどちらかだと思っていた私は、思いがけず女の子の許しを得られたことにほっとする以上に驚いた。
「こっちこそ、さっきは怒ったりして、ごめん、なさい」
ぶっきらぼうな口調で、彼女はそう言った。
思わず「え?」と疑ってしまいそうなほどに、赤茶色の髪の毛をした彼女からは想像もできないような素直な言葉だったので、当然のごとく戸惑う私。
「いえいえ、私がお客様の注文を忘れてしまっていたので……」
ぺこぺこと、頭を下げてから私は彼女の瞳をそっと見やる。そこには派手な髪色とは裏腹に、気弱そうな素朴な瞳があった。
「すみません」
それから始まった、「さっきはごめんなさい」「いえいえこちらこそ」という謎の譲り合いが。まったく不毛だし、終わりがない。いい加減もうこのやりとり飽きたわ! という頃には、私たちはお互いに「ぷっ」「ふふふ」と吹き出して笑っていた。
「あたし、せんせーからよく、もっと素直になれって言われるんです」
不毛なやりとりのあとには謎の親近感が湧いたせいか、女の子は友達と世間話をするみたいに、私に日常生活のことを語り始めた。
「『沙子は勘違いされやすんだから』って」
「沙子?」
「あ、あたしの名前です。宮脇沙子って言います」
「可愛い名前ですね」
「え? あ、ありがとう……」
どぎまぎしながら沙子は「ありがとう」と言う。そんな彼女の様子を見て、私は気がついた。この子はきっと、自分の気持ちを表現するのが苦手なんだと——。
「だからさっきも、怒ってなかったのに、上手く言えなくて……」
「そう……だったんですね」
彼女の言いたいことはとてもよく分かった。私だって、言いたいことを面とむかって目の前に人に伝えるのが得意でないから。だからいつも、本に助けてもらっている。
「一つ、聞いてもいいですか?」
私は彼女に対して抱いていた素朴な疑問をぶつけてみる。沙子は、「ん?」と首を傾げて同意の意を示した。
「沙子さんはどうして、言いたいこと上手く言えないって思うんでしょう……?」
ただ純粋に気になったというのはある。
けれどそれ以上に、私自身がその答えを知りたかった。どうしようもなく、答えを欲していた。
「それは……。あたし、中学のときいじめられてたから」
彼女の口から漏れ出た予想外の答えに、私ははっとした。
「いじめ?」
くるんとパーマのかかった赤茶色の髪は、私が想像する「いじめられっ子」とはイメージがかけ離れていたからだ。どちらかというと、おしゃれや服装に無頓着な子がそういう対象になる印象だった。偏見にすぎないかもしれないけど……。
「びっくりした?」
「は、はい」
彼女は、私が驚く顔を見てどことなく面白がっている様子だった。
「昔はこんなんじゃなかったんだよ。もっと地味で根暗で。ま、根暗なのは今も変わんないんだけどさー。靴隠されたり体操服破かれたり、机に『死ね』って彫ってあったり」
トイレの個室に閉じ込められ、外側から机を山積みにされて、2,3時間出られなくなったこともある。
でも、そんなのはまだよくて、一番最悪だったのは、人権を奪われたことだ。
ある日突然、みんながあたしのことを無視するようになった。
無視はされるけれど、落書きや物を隠されるという嫌がらせだけは執拗にされた。
髪の毛に給食の納豆をかけられた時は、「納豆女」というあだ名がクラス中、いや学年中にはびこっていた。
「やめて」と言っても聞こえないフリ。
うちは母子家庭で貧困だったため、母親は一人で働き詰めに働いていた。家に帰ってくるのはいつも夜の10時。くたくたになって寝床に入る母に、いじめられているなんて言えば、余計に母を疲れさせてしまう。だから言えなかった。
担任の先生に助けを求めるという手段もあった。でもそれも、クラスメイトの一人に「先生にチクったらお母さんを殺しに行く」と物騒なことを言われた。今なら子どものたわごとだと分かるけれど、その時は必死だった。信じてしまっていた。この人たちは本当に、母を襲いに来るだろう。家には年の離れた小さな妹もいた。母に危害を加えることが難しくても、幼い妹を攻撃するぐらいなら簡単にできてしまうと思った。
そんな憂鬱な毎日を過ごしていたが、あたしも中学三年生。
普通の女の子と同じように恋をしていた。
相手は同じクラスの竹下祐という男子だった。サッカー部のエース。かっこよくてクラスの人気者。話したことはないけれど、いつもクラスを盛り上げる彼を見て、あたしは密かに憧れていた。
身分不相応だということは、重々承知していた。けれど、彼があたしを表立っていじめてくることはなかった。いじめてくるのはいつも、強気な女の子たちだったから。だから、いじめと彼への恋心に、なんの繋がりもなかったはずだ。
しかし、恋するあたしの一縷の望みを、彼の放った一言が砕いた。
「誰が、お前なんかと! 納豆女なんかと……」
中学三年生の秋、放課後の教室での出来事だった。
クラスメイトたちが各々退散したあとの教室に、竹下祐だけが残っていた。なぜかは分からない。きっと宿題でもし忘れたんだろう——と勝手に想像して。
こんな機会、めったにないと思った。この先卒業するまでに、一度でもあたしと彼が二人きりになるタイミングなんて、この先絶対に訪れないと確信した。
だから、あたしは言ってしまった。咄嗟の判断で。
竹下くんのことが好き。
あたしの方が、彼の席よりも後ろの席にいた。だから、彼の方からしてみれば、突然後ろから話しかけられたということになる。話しかけられたというか、それ以上にびっくりするであろう、告白を受けた。
人間は、咄嗟の出来事にどれぐらい臨機応変に取り繕った対応ができるものなんだろう。
少なくとも、竹下祐はそういう能力に秀でてはいなかった。
もっと改まった場で——例えば、あたしが事前に彼の机の抽斗の中に、そっと手紙でも入れておいて、体育館裏に、はたまた校舎の屋上にでも呼び出した上でも告白だったなら、彼ももう少し上手い断りの文句を並べていただろう。
しかし生憎その日は、彼はおろか、告白した当事者であるあたしまでもが、予期せぬタイミングで、その人類史上最も難しいとされる告白却下の対応を強いられてしまっていた。
「いま、なんて? 誰が、お前なんかと! 納豆女なんかと……」
きっと彼だって、かなり動転していただろうから、あの日のあたしに、彼を責める資格はないのかもしれない。
しかし、それにしても。
それにしても、あんまりじゃないか。
「お前なんかと」という台詞に、第一次ハートブレイクを食らったあたしは、その先の「納豆女」という言葉に、第二次ハートブレイクならぬ、吐きそうなほどの胸苦しさを覚えて、例のごとく教室から飛び出していた。
OKされるなんて、もちろん微塵も思ってなかった。いや、ひょっとしたら「お友達から」ぐらいの返事はもらえたかも、なんて考えていた自分が憎らしい。
納豆女。
なんておぞましく、汚らしい響きなんだろう。
納豆は美味しいけれど、彼がそんな意味で言ったわけではないことくらい、容易に理解できた。すなわち、あたしが女の子たちから髪の毛に納豆をかけられた事件で一躍広まった忌まわしいあだ名を口に出しただけだ。
しかしたったそれだけの事実が、あたしの心を打ちのめした。
なぜ、こんなむごい仕打ちを受けなければならないのだろう。あたしは、友達と楽しく会話をしたり、精一杯部活動に打ち込んだりする青春を諦めた。無視されること自体辛いことではあったが、それぐらいならまだ、耐えられたからだ。中学三年間の楽しみをフイにしたって、この先の人生まで暗くなる保証はない。だからこそ、耐えられたのに。
なのに神様は、あたしに恋をすることさえ、諦めろというのだろうか。
友人と仲良くするだけでなく、クラスメイトの男の子にひっそりと想いを寄せたり、みんなが憧れる人に想いを告げたりすることすら、ダメだというんだろうか。
恋の成就までは祈っていなかった。ただ、断られるにしても、もっとマシな言葉があっただろう。あたしが「納豆女」でなく、ただ地味で目立たないだけの普通の女の子だったならば、竹下祐だって、あんな酷いこと言わなかったはずだ。
あたしが何をしたって言うんだろう。
きっと、決定的な罪は何も犯していない。
ただ地味で根暗で家庭環境が複雑なあたしが、クラスメイトの女子たちの格好のターゲットだっただけだ。
それ以上でもそれ以下でもなかった。
しかし、だからこそ簡単に標的にされてしまったのだ。
何か悪いことをして咎められたり、罪に見合う報いを受けていたりするのだとしたら、納得がいく。それは全部あたしのせいだからだ。あたしがきっと、他人に嫌な思いをさせてしまったり、法律に背いてしまったりしたせいだと反省できるからだ。
でも、このいじめに、大義名分なんて存在しない。いじめるのにもってこいのあたしがいて、いじめたいという悪意があっただけ。それだけのこと。
それだけのことだったから。
だからあたしは、無条件に人を信じられなくなってしまった。
沙子は、蛇口をひねって勢いよく飛び出してきた流水みたいに、中学時代の出来事をとうとうと語ってみせた。
「怖いから、人と関わるの。女も男も、大人も老人もみんな、怖いから……。だから、何か言いたいって思っても、それを言ってしまったら、またいじめられるかもしれないって思う。そしたら何も言えないし、誰とも関わりたくなくなっちゃった」
平気そうに言っているように見えるが、私は彼女がこたつの毛布の端をぎゅっと握りしめているのに気がついて、いたたまれない気持ちでいっぱいになった。
人とコミュニケーションをとるのが苦手だという沙子が、なぜ田舎のヤンキーみたいに髪の毛を赤く染め、巻いているのか、ことの時ようやく分かってしまった。おそらく彼女は、中学時代の失敗を、高校では繰り返さないようにしたいと思っているのだ。
地味で根暗な印象をなくしたい。
元気で明るい女の子にはなれないけれど、せめて見た目だけでも派手にしておけば、いじめの対象に選ばれることはないだろうと考えているのではないか。
その努力が、私に虚しさを運んでくる。
だってたぶん、派手な見た目にしたところで、彼女の心に鬱積した悩みや苦痛は変わっていないだろうから。
だからこそ、たった今私に、中学時代のいじめを話してくれたのだ。隠すことだって、白を切ることだってできたのに。あえて隠さなかった。正直に打ち明けてくれた。それがSOSでなくて、何だと言うのだろうか。
「沙子さんは……変わりたいですか?」
気がつけば私は彼女に問いかけていた。
カフェラテを口に含ませた彼女が、「え?」と私に目を向ける。
「今とは違う自分になりたいって思う? 例えばもっと自然に人と話したり、楽しい学校生活を送ったりしたいって」
高校生になった彼女は、もちろん中学時代とは違って、いじめられてまではいないんだろう。もし今も中学生の時と同じように友達から無視されたり、好きな人に思いを告げることもできなかったりするのならば、今日知り合ったばかりの赤の他人にいじめられていたなんて打ち明けることはできない。私だったら絶対に、プライドが邪魔をするだろうから。
けれど、いじめはないといしても、彼女が過去のいじめを引きずっていることだけは確かだと思う。
だからこそ、変わりたいかと訊いてみた。
「髪の毛とか服装とか、そんな見てくれの変化じゃなくて、心から変わりたいと思う? 自分らしい外見のまま、誰かと楽しく会話したり、どんなことでも話し合える友達をつくったりしたい?」
話を聞いているうちに、情が湧いてしまったからかもしれない。
それとも、これまで私に相談を持ちかけてくれた人たちの悩みを少しでも和らげることができたという自負が、私を焦らせたのかもしれない。
沙子が、私の問いかけに驚いたまま何も言葉を発しないのをよそに、私は畳み掛けるようにしてこう言っていた。
「いくら外見を変えたって、心が変わらないと、意味ないんだよ」
言ってしまってから、私は目の前にいる沙子の両肩が、ふるふると震えているのに気がついた。
しまった、と思った時にはもう遅かった。
「あなたには、何も分からないですっ……」
重く、低い声で沙子がそう呟いた。頰や口元は苦しそうに歪み、軽蔑するような視線を私に向けている。
彼女の震える肩が、唇が、全身が、途中から私を拒絶していたことに、なぜ気がつかなかったんだろう。
唖然として何か言葉をかけるのを忘れている私をよそに、彼女はさっと立ち上がり、急いで靴を履いて店から出て行こうとする。
「ま、待ってください!」
店から出て行くお客さんを引き止める権利なんてまったくもって持ち合わせていないのに、反射的に私は後ろからそう叫んでいた。
でも、彼女は私の方を振り返ることもせずに、木造の扉を開け、そのまま出て行ってしまった。
彼女の飲みかけのカフェラテと食べかけのワッフルが、こたつテーブルの上にぽつんと残されていた。
【第四話 前編 終】