【京都天狼院物語〜あなたの心に効く一冊〜】第五話 忘れられない人がいるあなたへ 後編≪もえりの心スケッチ手帳≫
文:鈴木萌里(京都天狼院スタッフ)
私と岡本が数ヶ月ぶりに京都天狼院書店で話をしている最中に、やって来た中年の二人の男女は、女性の方が最後に「あなたが何をしたって、あの子はもう、戻って来ないのよっ……! 死んじゃったんだものっ」と放って以降、依然として黙り込んだままだ。
いや、それは当事者の二人だけじゃない。
私も、その場に居合わせた岡本も、たぶん二階でコーヒーを啜ったり、バターチキンカレーを咀嚼していたりするお客さんたちからも、物音一つ発せられない。
しばらくの間、そんな何とも居心地の悪い時間が続いた。
1分だったかもしれないし、あるいは10分だったかもしれない。
とにかく、時間の流れが感じられないくらい、私たちは額に汗をかきながら、誰かが声を発するのを待った。
そうして、最初にしびれを切らしたのは、沈黙の原因をつくった女性の方だった。
「何よ……なんとか、言ってよ。あなたは私をなだめに来たんでしょう……。だから、ほら、なんとか言えばいいじゃない!」
女性が、男性に向かって再びヒステリックに叫ぶ。
「落ち着け、早苗。店の中なんだから」
「うるさいって言ってるでしょう!!」
ドンっ、と鈍い音が店内に響いたかと思うと、どさどさと本棚からたくさんの本が地面に落ちる音を聞いた。
「あっ!」
思わず声をあげて、音の出た方を凝視する。どうやら女性が真後ろにあった本棚に八つ当たりしてしまったらしい。本棚のちょうど中盤あたり、「あ行」の作者の小説が並んでいる棚だった。
私は、私の大好きな本たちが、本棚からバサバサと無残に落ちてゆく様を、初めて目にして唖然とした。
そして、またも咄嗟に動けなくなった。
「……」
これにはさすがに、「早苗」と呼ばれた女性本人も、まずいことをしてしまったと思ったらしく、滑り落ちた小説を見て、気まずそうな顔をしていた。
何もできない。
そう思って立ち尽くすだけの私に代わって動いてくれたのは、先ほどまで私と同じく二人のやりとりを見つめていただけの岡本だった。
「部外者が申し上げるのも何ですが、落とした本を戻しましょう。一緒に」
彼は女性を責めるのでもなく、二人に向かって一体ここに何をしに来たのかと問うわけでもなく、ただただ目の前の惨状をどうにかしようと、自ら協力を仰ぎ出てくれたのだ。
「す、すみません」
先に頭を下げたのは、男性の方だった。おそらく彼は、女性の旦那さんなのだろう。妻が冒した失態は自分のせいでもあると考えているのか、とてもすまなそうな表情をしていた。
「……悪かったわね」
ボソッと、小さな声だったけれど、早苗という女性の方も、さすがに罪のない本棚や本に当たってしまったことを反省してくれた。
私は未だすくんだ身体を上手く動かすことができないまま、「いえ……」と小さく答えることしかできなかった。
中年夫婦と岡本が三人で本を一つずつ本棚に戻してゆく。本当は店員である私が率先してやらなければならないことだが、私が手を出そうとすると、岡本が「もえりさんはいいから」と私が手伝うのを断った。彼なりの気遣いだと気づいて、「ありがとうございます」とお礼を言って厚意を受け取っておく。
本はあっという間に元の本棚の場所に戻った。三人で片付けたのだから、それもそうだろう。
「私、帰るわ」
「え?」
ガラガラッ——。
散らかした本を棚に戻し終えるとすぐに、妻の早苗さんがそれだけ言い残して、お店から出て行ってしまった。
「はあ……」
追いかけないのかな? と思って旦那さんの方を見たが、彼は肩を落とし、ため息をついているだけだ。どうやら走って追いかけるなどということはしないらしい。
「あのう、追いかけなくても大丈夫なのでしょうか……?」
お客さんのプライベートな事情に踏み込むのは多少憚られたが、さっきの騒動はもはや他人事ではなくなってしまったため、一応聞いてみる。
それに、ちょっと前に奥さんが放った一言、「あの子はもう、戻って来ないのよっ……! 死んじゃったんだものっ」という台詞が頭から離れなかった。
「はい、大丈夫です。家に帰ってると思いますので。それより、大騒ぎしてすみません。おまけに大切な売り物をあんなふうに扱って、なんとお詫びしたら良いものか……」
女性が去ってから物腰やわらかになった男性が、“売り物”のところで先ほど奥さんが八つ当たりした本棚の方を見やった。
「いえいえ、大ごとにならなくて良かったです」
先ほどの騒ぎはかなりの騒動だったのだが、怪我人が出たわけでも、本が破れたわけでもない。少しだけ店内をざわつかせて二階にいるお客さんに迷惑をかけてしまったのは申し訳ないが、事は最低限の騒ぎに抑えられた。
「妻は……早苗は、娘が亡くなってから、ずっとああなんです」
男性は、奥さんが出て行った扉の方を見つめながら、悲しげにそう呟いた。
「娘さん……亡くなられたのですね。心中お察しします」
私はまだまだ学生で、誰かの親になったことはないから、子を亡くした親御さんの、本当の辛さは分からない。
けれど、先ほどの奥さんの取り乱した様子や、男性の悲しそうな声色からそれがどれだけ辛くて耐え難いことなのかは十分すぎるくらいに伝わってくる。
「はい……先月、交通事故で。ちょうど、あなたぐらいの年齢でした。『サークルの仲間とドライブしに行く』って出て行ったその日に、娘が運転していた車が、事故に遭ったんです……」
そういえば、先月の頭にそんなニュースをやっていた気がする。高速道路で単独事故を起こしたって。
それが、この人の娘さんなんだ……。
そう思うととても他人事とは思えず、辛い気持ちになった。
友達と車に乗って少しばかり遠くに行く。運転を覚えた大学生がよくやる遊びだ。免許をとってはやる気持ちを抑えながら、いざ自分が運転する番になれば、怖気付いて。「やっぱりムリ!」なんて叫んでももう遅い。「やるって言ったんだから」とみんなに背中を押されて怯えながら運転する。
この男性の娘さんも、きっとそんな葛藤と闘いながら、数人を乗せた車を運転したのだ。
そして事故を起こした。
その事故は、車を運転していた娘さんの命を一瞬にして奪い去った。
「その日から、妻はひどく精神的に病んでしまって……。専業主婦ですが、私が家に帰って来ても、ずっとソファに座ってぼうっとしたまんまなんです。ご飯もろくに食べない。掃除もしない。妻の辛い気持ちはよく分かります。私だって、本当に辛くて今でもまだ娘がいなくなってしまったなんて、考えられないのです。しかし、さすがにこれではまずい。妻まで自分の前からいなくなってしまうような気がして……。一週間前ぐらいから有給をとって、昼間妻を外に連れ出すようにしたんです」
最初は自然の空気に触れてほしいと思って、ここらで有名な温泉へ。
温泉に入ったり、温泉街で名物のプリンを食べたりしている間、妻は終始無言で俯きっぱなしだった。
「温泉、気持ちよかった〜」
「……」
「名物の温泉プリンも最高だったな!」
「……」
「……」
温泉は失敗だったかと思い、今度は手軽に街でイルミネーションが綺麗な公園に連れて行った。金色や青色、白、ピンクと色とりどりの光に包まれたその空間に、二人きりで赴くというのは、何年ぶり、いや何十年ぶりだっただろうか。おそらく、まだ僕たちが結婚する前、交際を始めたばかりの頃、緊張した面持ちの彼女の手を引いて連れて行ったのが最後だった。その時は、緊張しながらも「きれいだね」って彼女が何度も言ってくれたのが嬉しくてたまらなかったことを思い出す。だから久しぶりにイルミネーションを見せてあげれば彼女の気も晴れると思ったのだ。
実に約20年ぶりのイルミネーションに、彼女は最初ピクリと反応し、何度か目を瞬かせた。
でも、20年前みたいに綺麗だとかまた来たいとか、そんな感想を漏らすことなく、ただただ星のように煌めく光たちをじっと見つめていた。納得のいく反応ではなかったけれど、温泉の時みたいにずっと俯いているよりはマシだと思った。
そして今日。
買い物やぷらぷら観光するのが好きな妻を、京都の観光地周辺散策へと連れ出すことにした。
場所は祇園四条から八坂神社、建仁寺近く。ド定番なコースだったが、ここは王道を行く方が、自分自身「次はどうしよう……」と迷わずに済むと思ったのだ。観光地なら人も多いし、彼女の辛い気持ちも紛れることを期待して。
けれど、それが間違いだったのかもしれない。
いつものようにどこか思いつめたような、諦めたような表情で自分の一歩後ろを歩く妻が、突然大きな声を上げたのは、祇園四条通りから八坂神社、花見小路、建仁寺と観光地を順調に巡ったあと、家に帰るための電車の駅に向かっている最中だった。
「ここ、気になってたんだ!」
つい興奮して、先走ってしまったのがきかっけだった。
僕は目先にある「京都天狼院書店」「本」「カフェ」という看板を見た途端、雑誌でその店を見つけた時の興奮が、全身に溢れてしまっていた。
あるいは、特に文句もなくここまでついてきてくれた妻に自分の気になっている店を紹介して元気になってほしい、という気持ちが大きくなっていたのかもしれない。
とにかく僕は、一刻も早く京都天狼院書店に入りたくて仕方なくて。
妻の手をぐいっと引っ張ってしまった。
「な、なに!?」
僕があまりに性急すぎたため、妻もびっくりしてしまったのだろう。
そして、緊張と我慢の糸が、その時点で切れてしまったに違いない。
「だからもうっ、嫌なんだって!」
そんな妻の叫び声と、妻がガラガラと京都天狼院書店の扉を開け放ったのは、同時だった。
そこからの僕と彼女は、見ての通りだ。
精神的に不安定になっていた妻の神経を逆なでするようなことをやってしまった僕は、妻の機嫌をなおそうと必死に食らいつきながらも、長年連れ添った妻にも関わらずどんな言葉をかければ良いのか分からず、内心焦っていた。
どんな言葉をかけても売り言葉に買い言葉で、全く聞き入れてくれない。
もはや、お手上げだった。
店員さんが割って入ってくれて、妻が本棚に八つ当たりをするというハプニングが起きなければ、自分一人では到底その場を収めることもできなかっただろう。
「そういうわけで……妻に元気になって欲しかったのですが、失敗してしまったようですね……」
男性は、娘さんが亡くなってからの妻の早苗さんとの日々を語ってくれたあと、「はあ……」と深いため息をついた。
きっとこの人だって、とても辛くて苦しいのに。大事に育ててきた娘さんが突然いなくなってしまって。それでも、奥さんを励ますために手を替え品を替え試行錯誤してきたのだ。その結果、奥さんを怒らせてしまったけれど、私には早苗さんが本当に彼に対して怒っているとは到底思えなかった。
「あっ、その本」
唐突に、男性が本棚のある一点を指さして声を上げる。
どうしたんだろう、と私は彼の指さす箇所をじっと見つめて。
「帯が……」
そこにあったのは一冊の文庫本、朝井リョウ先生の『星やどりの声』だった。
「帯が、破れてますね……」
私と同じく男性が見ていた本を目にした岡本が、残念そうにそう呟くのが聞こえた。
確かに、そこにあった『星やどりの声』の文庫本の帯の、ちょうど背表紙に位置する部分がパックリ破れていた。
「す、すみません!!」
威勢良く頭をガバッと下げて謝る男性。
「いえいえ、いいんです。帯の破れはよくあることですから」
そう答えつつも、私自身少し残念な気持ちになっていた。
本は、帯が破れたり汚れたりすると、返本しなければならない。返本すれば在庫は減るし、何より中身は綺麗な本を、帯が破れてしまったという理由で売れなくなってしまうのが悲しかった。
「いや、そういうわけにはいきません! これ、僕が買います!」
「ええ!?」
そりゃ、買ってくれるのは嬉しいけれど。
でも、求めてもない本を無理やり買わせるのはちょっと心が痛む。どうせ買うなら、前々から気になっていた女の子を、しどろもどろになりながら頑張ってデートに誘い出した時のように、その本が気になって読みたくて、手を出したり引っ込めたりした挙句に「よしっ」と思い切って手を伸ばして買ってほしい!
……なんて、またこれ以上妄想が膨らんでしまう前に、私は彼にこう話した。
「お気持ちは嬉しいです。でもその前に、一つお伺いしたいことがあるんです」
「聞きたいこと?」
「はい。奥さんは、本を読まれる方ですか?」
「それは……」
かつてはよく読んでいた。
その……、娘が死ぬ前までは。
彼は、言いにくいことを本当に言いにくそうに、鎮痛な面持ちでそう言った。
「そうだったのですね」
本が好きな人の大半は娯楽で本を読む人だ。
だから、余裕があるときにしか読めない。
その余裕とは、時間であることもあれば、心の余裕であることもある。
早苗さんの場合は後者だろう。心に余裕がなくなれば、娯楽として暇な時間にやっていた読書も、なんとなく憂鬱になり、おろそかになる。しかもその本がハッピーエンドであればあるほど、虚しくなるものだ。
私にもそんな経験があるから、男性の妻の早苗さんの気持ちは十分に察することができた。
でも。
それでも、私は。
「じゃあ、それなら一層、その本を奥さんに渡してみてはいかがでしょう?」
私は、男性の手にしっかりと握られている『星やどりの声』に視線を落としながらそう言った。
「この本を妻に……?」
私の提案が予想の範疇になかったのだろう。
男性は、たまたま帯が破れてしまって自ら購入しようとしていたその本を、じっと見つめる。
「はい。本当に偶然なんですけれど、私も読んだことがあって。『星やどりの声』、きっと奥さんの心に効く一冊だと思うんです」
「そう、なんですね」
「ええ。だからぜひ、奥さんに勧めてみてください」
私が男性に、そう強く勧めると、彼は魔法の薬を発見したかのように、不思議そうにその小説の表紙を見ていた。それから、一度表紙を撫で、「分かりました」と潔く頷いてくれた。
「妻に、この本を渡してみます。これも何かの縁ですし」
縁——。
そうだ。そう言われると、これは不思議な縁かもしれない。
どうか彼にとって、それから奥様にとって、大切な縁になるといい。
男性が『星やどりの声』をその場で購入してくれて、私は丹念に黒いブックカバーをかけた。
この本が、きちんと妻の早苗さんの元へ届きますように。
そう願いを込めて。
事の成り行きを見守ってくれていた岡本も、男性を見て以前の彼自身を重ねているかのような、優しいまなざしをしていた。
翌日、私は再び京都天狼院でのアルバイトに入っていた。時間帯は夜。夜の時間はゆったりとしていて、客足もまばらだったため、本の整理をしたり注文をしたりしていたのだが。
ルルルルル、ルルルルル
普段夜の時間帯にはあまり鳴らない電話が、その日は音を立てた。
電話を取る前、なんとなく、「あ、この電話はお客様からのお問い合わせ電話だな」とか、「これは店長宛の電話だな」というような予感がするのだけれど、今日の電話はやけに胸騒ぎがした。
「お電話ありがとうございます。京都天狼院書店の———」
『あなたですか』
「え?」
電話を取るなり聞こえてきたのは女の人の鋭い声だった。
『夫にくだらない小説なんか渡したのは、あなたなの?』
「え、あ、昨日の……」
電話の相手が、昨日大きな声を上げながら店にやって来た女性——早苗さんだということはすぐに分かった。
それにしても、どうしたんだろう。
とても、嫌な予感がする。電話の向こうにいる彼女の棘のある口調や、張り詰めた空気感。そして、「くだらない小説」という毒を含む言葉。
その全てが私に警告している。
『余計なこと、しないでくれる?』
「それは……大変、申し訳ございません。でも」
『でも何?』
私はなんとかして、彼女の気をなだめたかった。しかし、昨日の夫婦の様子を見ている限り、そんなことは到底無理だとも思う。だって、早苗さんのことを一番分かっているはずの旦那さんだって、あれほど苦戦していたのだから。
だから私は、彼女の気を宥めるのではなく、自分なりに伝えたいことを伝えようとした。
「その小説は……全然くだらなくなんか、ありません」
『は?』
まさか、仮にも店員とお客様であるはずの立場の私が、抵抗すると思っていなかったのだろう。早苗さんは、「ありえない」という口調で私に聞き返す。
けれど、私は諦めたくない。
「その本を、『星やどりの声』を、忘れられない人がいる全ての人に、読んでほしいんです」
読んだらきっと分かる。その小説が、どれほど心にビタミンを運んでくれるか。
しばらくの間、電話の向こうでピタリと彼女の声が止んだ。
だから私は、彼女を説得できたのかと、一瞬だけ思った。思ってしまった。しかし、次に彼女の口から飛んできた言葉が、私の胸にグサリと刃を突き立てた。
『あなたに何が分かるのよっ』
それは、激しい怒りの感情だった。怒りがむき出しになれば、たとえ顔が見えなくたって、こんなにも直接的に感じられるなんて思ってもみなかった。
『あなたに……、健康に生きてきて、今までなんの苦労もしてないような涼しい顔をしてるあなたに、娘を失った私の気持ちなんて、1ミリも理解できないわよっ』
今もし彼女が私の目の前にいたら、そのまま噛み付いてきそうな勢いでそう言った。
理解、か。
そうだな。理解なんて、私にはできない。
できるわけがない。
だって、早苗さんと全く同じ人間じゃないもの。
旦那さんだって、彼女の気持ちを100%理解することはできないのに、赤の他人の私には、到底分かってあげられない。
でも、それでも私は。
読んでほしい。
その本を読んで、ひどく心を動かされた一人の読者として。
だから、あなたにどれだけ嫌われたって、私は読んでほしい。
「私は、あなたが『星やどりの声』を読んでくださると、信じてます」
それだけだった。もうそれだけしか言えない。これ以上どんな言葉を繋げたって、一つも届きっこない。言葉は時に誰かを励ますけれど、いっぱいの言葉はかえってかえって邪魔になってしまうこともあるから。
『……』
諦めたのか、はたまた私は話が通じない人間だと思われたのか。
そのどちらかは分からないけれど、電話の向こう側からは、それ以上なんの言葉も発せられなかった。
私は、電話の先で私の出方を窺っているであろう彼女に向けて、「では、失礼します」と一言声をかけて電話を切った。
「もえちゃん、どうしたの?」
二階で仕事をしていたナツさんが、スタスタと階段から降りてくる。私のちょっと長い電話を気にかけてくれたようだ。
「いえ、実は昨日のお客さまから、お電話があって……」
昨日の出来事は、ナツさんには伝えてあった。娘さんを亡くした夫婦が訪ねてきたこと。奥さんや旦那さんのそれぞれの気持ち。私は、旦那さんに小説を渡すことしかできなかったこと。
昨日京都天狼院で起こったこと全て、ナツさんも把握してくれた上で、私を見守ってくれていた。
「ああ、例のお客さんね。それなら、大丈夫と思うよ」
相変わらず落ち着き払った声色で、ナツさんは私にそう言った。
「本当に、大丈夫でしょうか?」
「うん。だって今までもそうだったじゃん」
「そう……ですね」
不思議たった。ナツさんに「大丈夫」と言われたら、本当に上手くいくし、なんでもないことのような気がしたから。「なんでもない気がする」ってとても大事なことだと思う。それだけで安心できる。だから、いつも無条件で「大丈夫」と思わせてくれるナツさんに感謝した。
女将ナツさんの言う通り、早苗さんはそれから1週間後に本当に京都天狼院書店までやって来た。しかも、早苗さん一人ではなく、旦那さんも一緒だった。
「こんにちは」
旦那さんの後ろで、小さく頭を下げた早苗さんを見て、私は「ああ、本当にナツさんの言う通りだ」と思った。
「先日は、大変失礼しました」
「いえいえ」
「でも、本当に店員さんや他のお客さんに迷惑をかけてしまって……」
「もういいんです。特に被害もなかったですし。強いて言えば『星やどりの声』の帯が破れただけですしね」
帯の破れも今となっては笑い話! というようなテンションで、私は彼らに向かって笑いかけた。仮にもお客さんに、変な気を遣わせたくないから。
「ああ、そのことなんです。今日二人で来たのは」
男性は、ほら、と後ろで居心地悪そうに下を向いていた早苗さんの肩をポンと軽く叩く。
「その……この間は、電話でひどいことを言って、ごめんなさい……」
開口一番、彼女が謝罪の言葉を発したので、私は驚いてしまう。
「いえ、そんな」
確かに、グサリと心に突き刺さるような辛辣な言葉だった。でも、私がもし彼女と同じ立場だとして、大切な人を失ってからまだ間もないとして、とてもじゃないけれど、他人に気まで遣う余裕なんてない。だから、彼女のすごさが分かってしまった。
「あなたは全然関係ないのに。私たちとも……娘とも。それなのに、理解できないなんて言ってしまって、ごめんなさい」
今度は早苗さんだけでなく、旦那さんの方も一緒に頭を下げる。
「私、本当は好きなんです……」
「え?」
「本当は、小説が好きなんです」
「ああ、そうだったんですね」
大切なものを本当に大切に、愛おしむような口ぶりで、彼女は話し出した。
小説が好きだった。
毎日、暇があればいつでも本を読んでいた。
でも、あの日娘が死んでしまってから、めっきり本に手が伸びなくなった。
本を読んだって、気が紛れることもない。それがもし幸せな話だったらなおさら辛くなる。
だからどうしても本を開くことができなかった。
そして1週間前のあの日、夫が私をこの書店に連れて来た時、本当に腹が立って仕方がなかった。だって、大好きなのに触れられない本たちがたくさん並んでいるんですもの。そんな場所に、今の自分はふさわしくない。
本に触れたい。
でも、いざたくさんの本を目の前にしたら、やっぱりこの本の中に自分の心の傷を癒してくれるものなんて、一つもないと思ってしまったから。
だから本棚に八つ当たりなんかしてしまった。
最低だと思った。その行為が、書店員さんやここにいるお客さんを傷つけてしまうこと。そして何より、自分を傷つけてしまうこと。全部知っていた。
自己嫌悪に陥りながら家に帰って、そこで夫に本を渡されたのがまた、罪悪感を募らせた。
だってその本は、私が一番好きな本だったから。
娘が生まれた後、病院のベッドの上で読んで、何度も泣いてしまった小説だったから。
「『星やどりの声』は、お父さんを亡くした6人兄弟と母親のお話で……。父親が残した店を守って生活してて、明るい家族なのに……彼がいない悲しみを、皆それぞれ胸にしまって生きてる……」
でもやっぱり、悲しいのが、溢れてしまうことがある。
母親と一緒に兄弟の世話を一心に背負ってしまう長女にも。
父親と一緒に叶えたかった夢を持つ次女たちにも。
進路に悩む長男、バカみたいに振る舞っている次男にも。
一番父親との思い出が少ない三男にも。
そして、彼が残した店を守る母親にも。
「それぞれの気持ちが溢れて辛くなる瞬間に、それを読んでいた私も、娘が生まれた嬉しさに満たされているはずなのに、病院のベッドの上で泣いてしまって……」
悲しくて仕方がなくて。
辛い気持ちを周りに気づかれまいとする家族みんなの努力が、より一層切なくて。
「本当に泣いて泣いて、でも、最後に父親が残した仕掛けに、心がじわっと温かくなったんです。だからこの本を読んだ時の感動を、もう一度思い出したくて……あなたと電話した後に、もう一度読みました」
そうしたら今度は、この物語が違う物語みたいに思えてきて。
娘が死んでしまった今、朝井リョウの『星やどりの声』は、大切だったのに失ってしまった人を忘れるんじゃなくて、その人をずっと忘れずにいようって思わせてくれる物語だと感じたんです。
「下を向いて生きるんじゃなくて、娘のことを忘れずに、娘を想いながら、だけどもう振り返らずに前を向いて生きなくちゃいけないって、思い出させてくれたんです」
そこには、先日ヒステリックに叫びながら京都天狼院に入って来た彼女とは全然違う彼女がいた。
この女性は、早苗さんという人は、本当はこんな凜とした表情をした人なんだと、そこで初めて知った。それから、本が好きだということ。本を愛して生きてきた人だということ。
それが分かっただけで、私はもう十分だった。
「娘はもういないけれど……、これからは夫と一緒に、また明るい家庭での生活を送れるように、前を向いて生きなきゃダメね」
娘のことを忘れずに。
そう付け加えて、二人揃って深々と私に頭を下げる。
私は思う。母親って、こんなに強いものなのかと。大事な娘さんが亡くなって辛くて苦しくて、それでも前を向くと決意して。
確かに物語が彼女を元の姿に変えてくれたというのもあるけれど、これってもう、彼女自身の強さなのではないだろうか。
「ありがとうございます。お二人が来てくださって、本当に良かったです」
忘れられない人を、忘れなければと思い込むこと。それはとても苦しくて辛い。忘れても忘れなくても、どっちも悲しい。
でも、忘れないでいようと、自分で選択すること。
状況は変わらなくたって、こんなにも世界の見方は変わるのだ。
だから、忘れられない人がいて、その人を忘れなくちゃいけないと苦しんでる人がいたら、私はこう伝えるだろう。
その人をあなたは、ずっと忘れないでいればいいんだよって。
忘れられない人がいるあなたへ
朝井リョウ著『星やどりの声』はいかがでしょう?
【第五話 後編 終】