結局、最後はひとりだから。
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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:森真由子(ライティング・ゼミ平日コース)
ガシャーン。
え? ……。
一瞬の出来事で、何が起きたのか分からなかった。
状況を理解するための頭が追いつかなった。
背後を振り向くと、母も、父も固まっていた。
冷蔵庫の中に手を入れたまま母は、動けないでいた。
音がした床に視線を向けると、茄子の田楽が落ちていた。
奇跡的に田楽を塗った面は上を向いていた。まるで誰かが意図的にそこに置いたかのよう。
先程のガシャーンという音は、お皿が落下した音のようだった。
白い円が逆さまになってテーブルの下に転がっていた。
だけどこちらも奇跡的に割れていなかった。
「何があったの?」
静寂を破るように、私は思わずこう聞いていた。
その間、父はささっと茄子とお皿を手で拾い上げ、何もなかったかのようにコンロの横においていた。
白味噌が塗られたその茄子は、白いお皿の上に前からそこにあったと錯覚してしまうほど、見た目は無傷に見えた。
誰かにそれを差し出したら、落としたことなど疑いもせず、美味しそうに口に入れてしまうかもしれない。
「腕に力が入らなかった」
そう母は、ぽつんと言った。
普段からあまり表情が豊かでない彼女は、いつも以上に無表情に見えた。
だけど、私の目には微かな陰りが見えたような気がした。
これは、親の「老い」を感じた決定的な瞬間だった。
思えば、前兆はあった。
*
数週間前に母は瓶を開けようとして、蓋を回していた。
ちょっと固かったようで、何回か回そうとしても開かなかった。
思いっきり力を入れた瞬間、瓶は開いた。しかし、それと同時に肘に痛みが走った。
医者に見てもらったら、日頃あまりにも腕を動かさなかったからだね。急に動かしたことで痛めてしまっただけ、だと言われた。
母が医者からもらった湿布は、なんとも頼りなさそうにテーブルの上に置いてあった。
専業主婦である母は、変わらず洗濯したり、料理をしたりしていた。
今までとは何も変わらないのだけど、痛みはずっとそこに居座り続けているようだった。
家族は心配しつつも、そのうち治るだろうと思っていた。
そこで起きた茄子の田楽落下事件。
母は、親は、着実に老化していっていた。
*
20代後半になっても、私は実家に居座り続けている。
職場が実家から近い。近くてこれほど好条件な物件はなかった。
親もお金が貯まるし、家にいればいいじゃない、といい歳したアラサーの娘を嫌な顔せず居候させてくれている。
一人暮らしをしている人は、ちゃんと一人で生活をしているから本当にすごいと思っている。
大人なのだから私も自立しなければ、と思いつつも本当はそんなに焦っていなかった。
案外、私の周りには実家暮らしの人が多かった。だからまだ実家に住んでいること自体、そんなに変だと思っていなかった。
仕事から家に帰れば、美味しいご飯が待っている。
着た服も、家族の分と合わせて母が洗濯機を回してくれる。
まさに実家暮らしの利点をフル活用していた。
家事の面倒くささを抜きにして、一人暮らしをしてみたいとは思わないのか?
自分一人の空間は欲しくないのか?
たまに一人暮らしの人からそう聞かれることがある。
確かに憧れはある。
だけど、本気で家を出たいと思ったことはなかった。
一人になりたければ自分の部屋でこもれる。誰かと話したければ、リビングには誰かしらいる。
テレビを見ながら芸能人に対してあーだこーだ言って、仕事で大変だったことを聞いてもらえる。
だからわざわざ一人になる必要性がなかった。
*
ベッドの横にある時計を見ると、間もなく夜中の1時になる頃だった。
なにやっているんだろう。
今日聞いたガシャーンという音。床に落ちた茄子の田楽。固まっていた両親。
あの一瞬の出来事がどうしても頭から離れなくなっていた。
壊れた機械のように、何回も、何回も、同じシーンが繰り返し頭の中を流れていた。
ベッドで横になりながら、真っ暗な天井を眺めていた。
情けないな。目に溜まった涙が、頬をつたって耳に入ってきた。
ティッシュで拭き取り、自分の今の気持ちを整理しようとした。
親は、確実に老いてきている。
毎日顔を合わせていたのに、その変化に今更気付いた。
テニスを教えてくれていた親も、バスを捕まえるために走っていた親も、どんなに元気だった記憶が強くても、体は確実に老いてしまう。
この明らかな事実を、私はなぜ向き合ってこなかったのだろう。
老いの先には、「死」がある。
親の命は永遠ではない。事故や災害がなければ先に死ぬ確率が高いのは親だろう。
このことに改めて気付き、急に孤独感に苛まれた。
今まで見えていたオアシスは、確かにそこにあった。あったはずだった。
だけど、注意していなかったばかりに、それは幻想と化した。
目を覚ますと砂漠の中一人立ちすくんでいた。
そんな自分が想像できた。
砂漠の中、ひとり。
この乾いた砂漠に、自分以外何の存在も感じない。
だからこそ、強烈に感じる、自分という存在。
親は親の、私は私の人生を生きなければいけなかった。
だって、結局、人は誰しも最後はひとりになるのだから。
*
濡れたティッシュを手に持ったまま、外を眺めると薄い雲に覆われた月が見えた。
目が霞んでいたのか、その月はやけにぼんやりしていた。
すごくすごく遠くから、あの光は問い掛けている気がした。
あなたはどう生きるの?
***
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