メディアグランプリ

おなかの中の台風 


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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:阪口美由紀(ライティング・ゼミ平日コース)
 
 
「せんせー、ほんまに急なんですけど、木曜日って、午前中あいてません?」
「木曜日って、もうあさってやん。なんで?」
「どーしても急な家庭の事情で、午前中の授業、代わってくれる人探してて……」
 
これで4人目だ。代講の当てはあと1人しかいない。胸の辺りがキュッと苦しくなる。勤め先の学校は、授業日に休むのなら、代講できる人を自分で探してくる決まりになっていた。カリキュラムが遅れることは絶対にあってはならない。
 
「いいよ、引き受けるよ」
「ありがとうございます!!!ヴィタメールのチョコレートケーキ買ってきます」
 
助かった。サーカスの綱渡りをギリギリのところで渡り切った気分だった。ほっとする間もなく、同僚の先生が小声で聞いた。
 
「先生、最近どうしたん? ご家族の誰かご病気とか?」
 
私はあいまいな笑顔で言葉を濁すしかなかった。「ご病気の誰か」はまだいない。
それとも、私は病気なのだろうか。
 
明後日は2回目の採卵手術だった。不妊治療を始めて4か月が経っている。
初めて受けた手術では、卵子が1つ採れ顕微授精を行ったが、受精はしなかった。
 
だから、当たり前だが生理が来る。リセットだ。白いトイレの水に赤黒い経血が沈む。名前のつかない感情がため息とともにもれた。でも、次こそは。戸棚から生理用品を取り出し、このトイレのドアの向こうは新しい未来だ、と自分に言い聞かせドアノブをひねった。
 
この採卵手術に至るまでの1ヵ月半、私は指示されるがまま通院をくり返していた。血液検査をし、排卵誘発の痛い注射を打ち、卵巣に育つ卵胞のサイズをチェックする。卵胞が約20ミリになるまで、3日後にまた来てください、明日また来て、と何度でも平気で言われる。
 
クリニックは8時から19時半まで。始業前に採血や注射だけをして、授業後の時間に診察に行き、職場に戻って残業する。とにかく毎日が必死だった。非常勤講師とはいえ、勝手に職場は抜け出せない。「実家の母が……」「今、花粉症の耳鼻科に通ってて……」と、通院のたびに小さなウソを重ねることが増えていった。
 
大変な思いをして、日々のスケジュールを調整したからといって、卵胞が「最近がんばってんな、んじゃ自分も大きくなるわ」と空気を読んでくれるわけではない。卵胞の育ちは、全くもって予想がつかないものなのだ。
 
遅かったり、急に速くなったかと思えば、消えてしまったり。まるで天気図上の台風のようで、思い通りにならずもどかしい。卵胞台風に翻弄され、私の生活は気が付くと、治療中心のものになっていた。
 
手術日当日、私のおなかの中には2つの卵胞が育っていた。
 
「今晩は何かおいしいもん食べよう」と夫が言った。
「うん。じゃあ、がんばってくるわ」 不安と怖さで身体がこわばっているのが分かった。
 
エレベーターを降りると、カーテンで仕切られた5つのベッドがあった。手術着に着替え、看護師さんを待つ。枕元には小さなノートがあり、手術前の気持ちがつづられていた。2回目です、初めてです、これが最後です。希望と期待と不安と悲しみが一気に押し寄せる気がして、読まずに急いで閉じた。
 
「生年月日と名前をおっしゃってください。では、台の上にゆっくりどうぞ」
 
部屋は寒く薄暗い。中心には大きな内診台。3人のスタッフが静かに準備をしている。医療機器の動く音が規則的に響いていた。手術の前処理は若い先生。前処理だけでかなり痛みがある。力を抜いてくださいねと言われても…。卵胞の数が少ないので、全くの無麻酔で採卵を行うことになっていた。
 
医師が入室して手術が始まった。丁寧にこれから何をするか説明してくれる。
 
「ここからちょっと痛いからね、がんばって」
「痛っ……」 「……」
 
本当に痛いと言葉は出ない。痛みをこらえるために、息を止めるからだ。激痛にたえるのに両手をグッと握ると、看護師さんが手を添えてくれた。何度目か、痛いが熱いに変わる。天井を見つめ呼吸に集中する。先生はモニターを見ながら、手を動かして、小声でスタッフと話していた。採卵針は何度刺されたのだろうか。先生の手が止まり、強烈な痛みは引いた。看護師さんに付き添われ、ベッドに戻り、抗生剤と痛み止めを飲んだ。しばらく安静にとのことだった。
 
卵子は取れなかった。2つあった卵胞はどちらも空胞だった。卵胞はできていたが、卵子が入っていないのだ。一定の割合であることだ。仕方がない。頭では理解している。
 
しばらくすると、夫に半休を取ってもらったのに、同僚に授業を代わってもらったのに、と申し訳ない気持ちがわき出てきた。会計で十数万円を支払うと、何にお金を払ったのか分からなかった。痛みの残った身体と、ウソをつく後ろめたさ、痛い注射と多大な時間。あの努力と代償は一体何のためだったのか…。大きな徒労感に覆われ、涙すら出なかった。
 
何十年も前だが、住んでいた町に台風が直撃した。河は氾濫し家は浸水。街路樹は倒れ、建物は破壊された。そこに確かにあった生活は一晩で失われた。自然災害の甚大さに人は無力で、ただただ圧倒されるばかりだった。
 
おなかの中に台風を抱えた不妊治療中の女性は、この圧倒される感覚をくり返し体験しているのではないだろうか。
 
それでも前に進むしかないのだけれど。
いつかは子供を授かるという希望だけを持って。
 
***
 
 
 
 
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2020-11-22 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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