『嫌われる勇気』との再会
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記事:増嶋太志(ライティングゼミ 日曜コース)
「トッパツセイ、ナンチョウ?」
目の前で話す医者の言葉を、頭の中で反芻していた自分を思い出す。
数年前、私が広告代理店の仕事に就いて半年が経ったころ、右耳の耳鳴りが突然おさまらなくなった。キーンという音が右耳で鳴り止まず、聞こえづらさを感じた。耳鳴りと聞こえづらさは次第に増していき、2日後には右耳がほぼ聞き取れない状態になっていた。それに加えて、ふわふわと頭が揺られているような感覚が続き、吐き気を感じるようになった。
「これはなんだかまずい気がする」と思った私は、生まれて初めて耳鼻科を訪れた。院長に症状を伝えると早速、聴力検査を受けた。「聞こえていない」という自覚があるからか、いつもはなんでもない聴力検査が怖い。耳に大きなヘッドフォンを装着されたあと、右耳に聞こえてくるはずの高い音がやはり聞こえなかった。その結果を受けた院長から「市民病院へ紹介状を書くので、一日でも早く伺ってください」と言われた。
次の日、市民病院で改めて検査を行ったあと、担当医から「突発性難聴」であることを告げられた。その馴染みのない言葉を私は頭の中で反芻した。この病気はミュージシャンやアーティストが発病し、なかなか完治できずに苦労している、という報道をニュースで観たことがある。ミュージシャンでもアーティストでもない、サラリーマンの自分がなぜ発病したのか。
1日でも早い入院を勧める医者の言うとおり、なんとか入院できるよう会社に調整してもらい、翌日から私の入院生活が始まった。治療のために食後3回の飲み薬と、1日1回の点滴を打った。点滴を打っているときもそうでないときも基本は手持ち無沙汰で、食事と風呂以外はただただ時間が過ぎるのを待つことになる。
「これは暇だ」と思った私は、母親に頼んで家にある本をいくつか持ってきてもらった。その中にあった1冊が『嫌われる勇気』である。言わずとしれた「アドラー心理学」の名著で、過去に2度ほど読んだことがあるが、この機会に改めて読み直したいと思った。時間ならいくらでもある。哲人や青年と一緒にこころゆくまで議論してやろうと、私はベッドの上で姿勢を正した。
『嫌われる勇気』のストーリーは一貫して哲人と青年の会話で進められてゆく。何度読んでも、あっという間に物語に引き込まれ、第三者として二人の会話をそばで聴いているような感覚になる。そして、少しずつ、確実に、アドラー心理学の魅力に引き込まれてゆくのだ。
「嫌われる勇気」とは決して人に迷惑をかけようとしたり、こちらから人を嫌いになったりすることではない。「ありのままの自分」を素直に生きるということだと私は理解している。その上でだれかとぶつかることは起こりうる。その結果、誰かに嫌われることもあるのかもしれない。しかし、ぶつかることを恐れ、人に合わせることだけを選択してしまうことは、本当の意味で「自分を生きること」にならないのではないか。
振り返れば、ぼくはできる限りぶつかることを避けて生きてきたように思った。できれば、怒られたくないし、みんなに好かれたいと思っては、自分の本心にふたをして、人に合わせることを選んだことが何度もあったはずだ。
『嫌われる勇気』の哲人の言葉に触れることで、社会で生きていくためには誰かに合わせることが必要なわけではなく、「自分が何を大切にして生きたいか」を理解することが必要だと思った。それが理解できていれば、大切なものを守ろうとするときに意志をもって貫く選択ができる。それこそが勇気を必要とする瞬間であり、その人の生き方が問われる瞬間だと思うのだ。
私は病院のベッドで『嫌われる勇気』を読み終えると、しばらくの間、虚空を見つめていた。こうして「突発性難聴」という病気になった原因はわからない。けれど、周りの人に合わせ、会社に合わせて過ごしてきた結果が、身体の不調として現れたのかもしれない。そう思うと、自分自身に申し訳なくなった。そして、このタイミングでこの本と再会したことで、私が生きる上で大切にしたいものは何かを問う貴重な機会となった。
10日ほど入院生活が続いたが、治療の効果が出始めると、右耳は元通りに聞こえるようになった。何事もなかったかのように聞こえる耳に、心から感謝している自分がいた。
哲学者であり、教育者の森信三さんは「人間は一生のうちに逢うべき人には必ず逢える。しかも、一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に」という言葉を残したと聞く。それは人だけでなく、本との出逢いも同じなのかもしれない。それらの出逢いの先に、こうして私は生きている。だとしたら、どんな些細な出逢いも大切にできる自分でありたいと強く願うのだ。
«おわり»
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