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1945.3.10 忘れてはいけない東京の記憶


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:石川まみ(ライティング・ゼミ日曜コース)
 
 
3.11東日本大震災から10年。大々的にニュースの特番が組まれていた。
3月にはもう一つ忘れてはならない災害が有る。
3.10東京大空襲。戦後76年。この日を伝える報道はだんだんに少なくなっていく。
「こうして忘れられていくのかしらね」母はさみしそうに言った。
 
*これは私の母、ふみ子が体験した実話です。
 
1945年(昭和20年)3月10日未明の東京大空襲。
アメリカ軍爆撃機B29による爆撃を受けた東京は、下町を中心に一夜にして焼け野原となった。約2時間半で被災者は100万人を超え、約10万人の尊い命が奪われた。
 
夕暮れ時、ふみ子は我が家の焼け跡でぽつんと一人、家族の帰りを待っていた。
家は被害のひどかった江東区、亀戸に有り、ふみ子は小学6年生12才だった。
戦火を逃げまどい煙でただれ、目は腫れあがってぼんやりとしか見えない。近くで焼け残っているのはお寺の墓石だけだ。折り重なるように亡くなっている人たちは黒焦げで誰とは全く判別が出来なかった。そんな視界の先に人影が現れた。
兄さん? 「兄さーん」叫ぼうとしたが、のども腫れあがり思うように声が出ない。
ふみ子の兄は造船所で働いていて空襲の時は夜勤で家にいなかった。
「ふみ子! 父さん、母さんは? みんなは?」
「逃げる時にはぐれて、まだ帰って来て無い。叔母さんは無事で、みんなを探しに行ってる。叔父さんもはぐれたけど、さっきみつかった」
その後、叔母の友人宅に身を寄せながら、必死に家族を探し、帰りを待ったが兄以外には誰も帰ってくることは無かった。
この空襲で両親、祖母、三つ年上の姉、幼い妹、弟の6人の家族を失った。
 
何が生死を分けたのか。とても不思議なことがいくつか有った。
ふみ子の家は、ほとんど跡形もなく燃えたが、なんと家族のお茶碗はきれいな形で残っていた。食後洗って水を切るためにざるに入れ縁側に置いたものだ。全部無傷かと手に取ろうとすると、ふみ子と兄のお茶碗だけが真ん中からスパッと刃物で切ったように二つに割れていたのだ。叔母は「まるでお茶碗が身代わりになったようだ」と言った。
遺体が見つからなかった家族のお墓には、お骨の代わりにこのお茶碗が安置されている。
 
空襲当日。空襲警報のサイレンが唸るように鳴り響いた時にはすでに戦火は迫っていた。
「みんな逃げるぞ! 早くリヤカーに乗れ!」父が叫んだ。祖母と子供たちをリヤカーに載せて一緒に逃げようとしたのだ。ふみ子は祖母を乗せるのを手伝い自分も素早く乗りこんだが「ふみ子は降りろ!」と父に言われた。お姉さんの方が手前にいるのに、なぜ一番奥に乗っている私が降りるの? と一瞬思ったが考える間もなく飛び降りた。
隣家に住む叔母が病み上がりだったがリヤカーにはもう乗せる隙間が無い。このためふみ子が付き添って歩けと言うのだ。
「叔母さんの手を握って歩け、いいか、お父さんたちとはぐれないようにしっかりついて来るんだぞ!」
「川の方に行く。天神橋に向かうからね、もしはぐれても軍事工場は狙われるから一番危険だから絶対に行っちゃだめだよ!」お母さんはリヤカーを押しながら振り返って叫んだが、その背中は逃げまどう群衆に紛れてあっという間に見えなくなった。叔父も一緒に歩き出したがはぐれてしまった。
春一番のような大風が吹き荒れていた。火と煙はごうごうと舞い、生き物のように迫ってくる。火の粉が固まりとなって鉄砲水のように道路を流れている。空は爆撃の明りで戦闘機も、そこから降り注ぐ焼夷弾(しょういだん)もはっきりと見えていた。
「軍事工場は危険だ」分かっていたが自由に行きたい方向に進める状態では無くて、気が付けば、ふみ子と叔母は軍事工場のすぐ脇まで来ていた。
「もうだめだ」そう思った。しかし軍事工場は爆撃されなかった。二人は一命をとりとめた。
 
夜が明けて次第に浮かび上がる惨状を目の当たりにしながら、家族が向かうと言っていた天神橋に急いだが誰とも落ち合うことは出来なかった。天神橋は隅田川の支流の川に架かっている。川面は熱から逃れるために飛び込んだ人たちの亡骸で埋め尽くされていた。
 
ふみ子の兄は当時18才。造船の仕事にたずさわっていたため、まだ徴兵されていなかった。空襲当日は中央区の月島に有る会社でたまたま夜勤をしていて難を逃れた。通常は夜勤のある部署にいなかったが、身内に不幸のあった同僚に頼まれてその日の夜勤を引き受けたのだ。東京の中心にあり木造住宅の密集する月島、佃の周辺は一番爆撃されそうな地域だったが造船所と共に奇跡的に被害を受けなかった。
 
日に日に深刻化する食糧難。戦火で焼けた馬車の馬の肉もえぐり取られ食べられていた。
焼け出された人に避難所が設けられるわけでは無い。街には孤児もあふれかえった。
死体を漁り金歯を抜いて回る人を目の当たりにした。
その後、ふみ子は顔も見たことが無い遠い親戚を頼っていくつかの地域を転々とした。まずは北海道の室蘭に渡った。どこでも疎まれくたくたになるまで働かされたが、それでも戦災孤児のことを思えば、ありがたかった。
その年の8月に日本は無条件降伏をして終戦となった。
兄はその後、徴兵されて九州に配置されていたが無事に帰ってくることができた。
区画整理が進んだ焼け跡にバラックの家を建てて兄と暮らし始めた。
戦争は終わったが、同時にそれは新たな時代の険しい道のりの始まりだった。
 
私は、幼い頃に母ふみ子から幾度となく戦争の話を聞かされた。でもそれが怖くていやだった。
「語り継いでいかなければ」と言う母の気持ちはわかっていたが、大人になってからも戦争の話はなんとなく避けてきた。
母は今年で89才になる。波乱万丈な人生を気丈に生きてきたが最近は弱気なことを口にすることが多くなった。そんな母を見ていて私は今年の3月10日、東京大空襲の有った日に初めて積極的に母から戦争の体験談を聞きいた。今まで聞いてきたこと、知らなかったこと、文字には出来ないような悲惨なこと。今更ながらに胸に迫るものが有った。
私たちは実際に戦争を経験した人の話を聞ける最後の世代だ。またいつか起こることが無いように後世に伝えていく大切さをあらためて感じた。
東京大空襲資料センターが有るということも初めて知った。コロナ禍が過ぎたら母を連れて行ってみたいと思っている。
 
 
 
 

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2021-03-21 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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