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忘れられない戦士の言葉


*この記事は、「ライティング・ゼミ」を受講したスタッフが書いたものです。

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記事:ebikawa(ライティング・ゼミ日曜コース)
 
 
洗濯物を洗ったまま干すのを忘れたり、お米を水につけたまま炊くのを忘れたり。大体において忘れっぽい私だが、ずっと忘れられない言葉がある。
 
今は昔の大学時代。同じゼミに、講師ではなくひとりの生徒として、おじいさんがいた。名前はKさんとしよう。
Kさんは定年まで大手電力会社に勤めた後、自分の好きな勉強がしたいということで、私と同じ人文科学科の授業をとっていた。
 
在職時は結構な役職だったという噂を人づてに聞いたが、Kさんはまったく偉そうに振る舞うこともなく、いつもにこにこしていた。小柄だったせいもあるのか、数十年の年の差による近寄りがたさも不思議となかった。いかにも優しいおじいさん、といった印象だった。
 
ゼミには私とKさん含めて3人しかいなかったので、必然的に話す機会も多かった。しかしゼミ以外の場では特に親しくするわけでもなく、Kさんも若者の輪には積極的に入ってこないようなところがあった。
 
ずっとそんな距離を保っていたが、大学卒業が近づいたころ、私は図書館の前で偶然Kさんに会った。それまでもよく、Kさんのことは図書館で見かけていた。Kさんは勉強熱心だったので、いつも分厚い本を何冊か抱えていた。
 
たいていは見かけても挨拶をして通りすぎるだけだったが、もう会う機会もあまりなさそうなので、私はその場でKさんと立ち話をした。雪が降りそうな日で、屋外で話すには足元がひどく寒かったのを覚えている。
 
Kさんは私に、卒業後はどうするのか、と尋ねた。私は就職活動に苦戦したことと、中小規模のシステム開発会社にどうにか就職が決まったことを説明した。大手電力会社に勤めていたKさんにそんなことを話すのは少し恥ずかしかったが、Kさんは下に見るような態度もなく、勤め先が決まって良かったですねえ、と穏やかに喜んだ。
 
しかし、それからKさんは私の方を見て、こう告げたのだ。
 
「社会に出ると、それはもうびっくりするくらい嫌な人がいて、びっくりするくらい理不尽なことを言われると思います。でも、あなたみたいな人がそれに傷つく必要はありませんからね」
 
いつものような柔らかい口調だったが、その言葉に私は内心おののいた。
新社会人にかける「がんばれ」などという通りいっぺんの励ましや、未来への期待に満ちた助言と違って、Kさんのメッセージには、重さと暗さがあった。それまで優しいおじいさんだったKさんに、急に、何十年も孤独に闘い続けてきた戦士のような深い影が感じられたのだ。
 
Kさんの言葉に、自分が何と返したかは覚えていない。とっさにうまい返しができたとも思えないので、適当に返事をしてしまっただろう。
そのあとすぐに立ち話は終わり、それきり私はKさんと会っていない。しかし、今でも私の中にはそのときのKさんの言葉が残っている。
 
あれから約16年。私は転職を3度して、職種も業界も変わった。その間に、パワハラ、セクハラ、ブラック企業、ワンマン社長に悪質クレーマー、なんでもござれの経験を積んできている。
 
確かにKさんの「予言」通り、社会にはびっくりするくらい嫌な人がいて、びっくりするくらい理不尽なことがある。そういう目に会うたび、Kさんの言葉を思い出すのだ。あーあ、Kさんの言うとおりですよ、と。
 
「予言」通りの理不尽な仕打ちにあっても、Kさんの言葉の後半のように「傷つかない」でいることは難しい。嫌なものは嫌だし、悔しいし、落ち込んでしまう。
しかし、傷つかないことは難しくても、そのたびに「あなたのような人が傷つく必要はない」という言葉を噛みしめると、「嫌なやつなんか、まじめに相手していちゃだめだ」「私はやることをやったし、十分偉い!」と、自分を大切にする気持ちに少しだけ立ち返れるのだ。
 
これは憶測に過ぎないが、この言葉を言ったKさん自身が、社会の中でこれまでびっくりするくらい嫌な人からびっくりするくらい理不尽な目に合わされて、たくさん傷ついてきたのかもしれない、と思う。
嫌な人の存在も、理不尽な目に合うことも、自分の力ではどうにも変えられないことが多い。しかし、それらに対して「戦え」「迎合しろ」といった対応ではなく、「傷つく必要はない」という、自分の考え方で少しでも気分を変えられる対応をしてきたのは、他ならぬKさんだったのだろうか。
 
大企業を生き抜いたKさんは、長年の戦いで自身が編み出したとっておきの「技」を、次の世代である私にあのとき託してくれたのかもしれない。一線を退いた戦士が、次世代に技を継承するように。
 
いつか私も、就職を控えた大学生と話す機会があったら、同じ言葉を言ってみたいとこっそり願っている。Kさんほど印象的に重みを持って伝えられるかはわからないが、それが誰かの心に残って、人生の長い戦いの中で時折思い出される言葉となってくれたら、Kさんの編み出した「技」を残していけるように思うのだ。
 
 
 
 
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