私の上司は人差し指1本でキーを打っていた
*この記事は、「ライティング・ゼミ」を受講したスタッフが書いたものです。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:深谷百合子(ライティング・ゼミ超通信コース)
子どもの頃、父はよく家でタイプライターを使って仕事をしていた。ガチャガチャガチャとキーを打つ音がすると、私は父のそばへ駆け寄って、父の横でタイプライターのアームの動きや紙に文字が打ち込まれていく様子をじっと見つめていた。「チーン」と音がして、父がレバーを押すとローラーが移動する。その瞬間が好きで、「私にもやらせて!」とよく仕事の邪魔をしたものだ。
そんな私に閉口したのか、父は新しいタイプライターを買った後、それまで使っていた古いタイプライターを私にくれた。紙をセットして、クルクルとローラーを回すけれど、紙が斜めになったりする。そのたびにヒスを起こしていた私だが、きれいにセットして、バーで紙を押さえると、何だか大人になった気分がした。
小学生になるかならないか位の頃なので、打ち込む字は意味の無い適当な字ばかりだ。それでも、父の見よう見まねで両手を使おうと、右の人差し指と左の人差し指を使って、幾分重いキーを叩いていた。
「キーボード」を両手で早く打てるようになりたいと思う気持ちは、多分この頃から持っていたのだろう。
その後社会人になって、ワープロを早く打てるようになろうと、本を読んで練習し、ワープロ検定に挑戦する内、子どもの頃から憧れだったタッチタイピングができるようになった。
現代は小さな子どもの内から、スマホ、タブレット、パソコンを触る機会が増えた。「キー入力操作が速く正確にできるようになりたい」というのは、「憧れ」というより「切実な問題」なのかもしれない。
この夏休み、子ども向けに色々な経験をしてほしいと、毎朝30分ほどSNSを使って日替わりで様々なテーマでレッスンを提供している仲間がいるのだが、先日私の友人がゲーム感覚で楽しめる「タッチタイピング」のレッスンをしてくれた。
「今は皆どうやって字を打ってる? 人差し指で打ってる人は1、両手だけど適当っていう人は2、先生みたいに打ってる人は3ってコメント欄に入力してね」
友人がそう言うと、子どもや一緒に視聴している大人達が一斉にコメント欄に番号を入力してくる。1や2という回答が多い。
「じゃあ次の質問ね。タッチタイピングって誰でもできるのかな? できるって思う人は1、できないって思う人は2って入力してね」
すると、皆が一斉に「1」と入力してくる。
「そう、誰でもルールを覚えれば簡単にできるようになります! まずFとJのキーを触ってみて。出っ張りがあるから、目を閉じて探してみて。そこが人差し指を置く場所だよ」
それを聞いて、私は自分のパソコンのキーボードを見た。
「でっぱり? おぉ、確かにキーの中央に・がある!」
私はその時初めて、そのわずかな出っ張りに気づいた。もう何年も毎日何時間も使っているというのに、言われるまで気づかなかったとは!
知っているつもりでいても、改めて聞いてみると意外と知らないことがあって面白い。そして、結構自己流になっていたのに気が付いた。例えば親指をほとんど使っていないとか、指がホームポジションから離れたままになっていたりしていることに気が付いた。時々基本に立ち返るって必要なことだし、できているつもりでも、自己点検のつもりで学び直してみると新たな発見があるものだなと感じながら、「誰でもできるようになる」というところで、20年以上前にお世話になった上司のFさんのことを思い出していた。
Fさんは、私が31歳で再就職した時から、色々な経験を積ませてくれた上司だった。技術系の仕事に初めて取り組む私に、技術者とはどうあるべきかを教えてくれた存在だった。
当時50代だったFさんは、資料や報告書はいつも手書きだった。どうしてもワープロ打ちが必要な時は、私や他の部下に「悪いけど、これワープロで打ってくれる?」と頼んできた。
「おれがやったら、丸1日かかってもできないから、全体のことを考えたらワープロは得意な人にやってもらった方がいいんだよ」が口癖で、パソコンの前で字を打ち込んでいる姿は一度も見たことがなかった。
Fさんが東京の本社へ異動した後も、仕事で連絡をやりとりする機会は多かった。「悪いけど、このメールに返信しておいて」と、海外の事業所からFさん宛に送られてきたメールを印刷したものがFAXで送られてくることもあった。
そのたびに、私は同僚と「そのまま返信したら早いのに、メールをわざわざ印刷してFAXするなんて、Fさんはよっぽどメールを打つのが嫌なんだね」と笑い合った。
ところがオフィスの環境対策の一環で、本社も私の勤務していた事務所も、コピー用紙の使用量削減のためにFAXは原則禁止となった。社内でのやりとりはメールが基本となり、パソコンもひとり1台の時代に変わった。
本社へ出張してFさんのもとを訪ねた時、Fさんは眼鏡を額にのせて、背中を丸めながら右手の人差し指1本で、キーを探しながら打っていた。端から見ていると何とももどかしい。
「もうさ、ホント大変なんだよ。MとかWとか、なかなか見つからなくてさ。メールなんて1行打つだけで疲れるよ」
「どうりで。Fさんから私宛のメールとか、本件あとで電話しますってひとことだけですもんね」
「素っ気ないメールで悪いとは思うんだけどさ、でもメールを打ってることだけでも進歩してるんだから大目にみてよ」
そう言いながらも、Fさんはどことなく楽しんでいるようにも見えた。Fさんは、私がやったことのない初めての仕事を私に任せる時、「誰だって最初はやったことがないんだから大丈夫。できている人に教わればいいし、周りに人がいなければ本から学べばいい。おれもそうしてきたから」と言って、任せてくれた人だ。もしかしたら、このキーボード入力を自分にとっての新しいチャレンジとして挑もうとしているのかもしれないなと思った。
数か月経った頃、私はFさんからのメールが変化していることに気づいた。行数が増えているのだ。Fさんが出張で私のいる事務所に来た時、私と同僚がそのことを伝えると、「そうだろう? 今まで人差し指で打ってたけど、両手の人差し指と中指を使って打てるようになったんだよ」と嬉しそうに話してくれた。
その後私は別の事業所へ異動し、Fさんと仕事で直接連絡をすることもなくなり、1年が過ぎた。研修で本社へ出張した時、挨拶をしようと久しぶりにFさんをたずねた時のことだ。
「ちょうどよかった。見せたいものがある」と言うと、Fさんはパソコンの前でカタカタとキーボードを打ち始めたのだ。以前みたいにキーボードに顔を近づけたりせず、画面を見たまま、両手を使って軽やかにキーを打っている。
「ほらほら、キーボードを見ずに打てるようになっちゃったんだよ」
「えー、メールをFAXで送ってきたFさんが?」
「すごいだろー。しかもエクセルでさ、こんなのも作っちゃったんだよね。人間、やる気になればできるんだよ」
そう言って、若手社員向けの教育資料を見せてくれたのだ。
その笑顔を見て、「人はいくつになっても何かができるようになるって嬉しいものなんだな」と思った。そしてまた、「私はいい上司に恵まれたな」と思った。そうやって、できなかったことができるようになるまでの過程をそのまま見せてもらえると、「それでいいんだ」と安心する。できない内は何となくかっこ悪いけれど、できないことを恐れてやろうとしないより、やってみれば変わっていくことを、身をもって教えてくれた。
だから私も、やったことがないことでも、怖がらずにできたのかもしれない。それに、Fさんは無茶振りをよくする上司だった。
これといった知識も経験も無いのに、いきなり私を海外の事業所のプロジェクトに送り込んだり、プレゼン資料を作るだけだと思っていたら、「資料作った人がプレゼンした方がいいんだよ」と言って、プレゼンまでさせられたりした。
私の後輩も、海外の事業所から研修生が来た時に無茶振りをされた。
「じゃあ、君ちょっと工場を案内してあげてよ。おれと深谷さんは昼食に行ってくるから」
「えっ! いや僕、英語しゃべれないんで・・・・・・」
「大丈夫大丈夫、何とかなるから」
そう言って、本当に後輩と研修生を置き去りにして昼食に行ってしまった。
後から後輩に様子を聞いたら、「身振り手振りでなんとかなりました」と言っていたが、それから数年後、彼は海外の事業所でバリバリ英語で仕事をするようになっている。
私も、色々な無茶振りをされるたびに、必死になって調べたり、人に聞いたりして何とかこなしてきた。その時には意味がよく分からないこともあったけれど、10年近く経ってやっと、「あの時のあれって、こういうことだったのか!」と点と点が繋がるようなことがいくつもあった。
あれこれ手取り足取り教えてくれるわけではなかったから、いきなりの「無茶振り」だと当時は思っていたけれど、今から考えると「場」を作ってくれていたのだと思う。
自分がグッと成長した時のことを振り返ってみると、手取り足取り親切に教えてもらった時よりも、場を与えてもらったり、自分から「未知の場」へ飛び込んだ時の方が成長できた。できないことだらけの中で、上手くいかなかったり、不安になることも多かったけれど、自分でやってみると、できているところとできていないところが分かる。できていないところが分かれば、どうすればよいかを自分で考えて、次の行動に移せる。それを繰り返す内にできるようになってきたのだ。
でも、ただやみくもにやればいいわけではない。
技術畑出身ではない私が、初めて「工場排水のリサイクル」という技術系の仕事をすることになった時、その仕事を私に任せた上司のFさんは、「技術者の心得」としてこう言ってくれた。
「この世界はね、全部原理原則があるんだよ。例えば水は高い方から低い方へ流れる。電気もそう、熱もそう。みんな原理原則がある。だから、まず原理原則を知ること。そして、目の前の事実をよく観察すること。特に正常な時の状態をよく観察していれば、異常をすぐ発見できる。問題が起きたときや上手くいかないときは、起きている事実を原理原則に照らし合わせて考えること」
この教えは私をずっと支えてくれてきた。会社を辞め、仕事の内容が変わってからは、その仕事に必要な原理原則を学んだ。どの世界にも原理原則はあるのだ。そして、それが行動の指針になる。
そんなFさんの教えを思い出しながら、パソコンの画面に視線を戻すと、画面にはキーボードの絵と説明をする友人の手元が映し出されていた。
「親指以外の4本の指は、ここにおいてね。親指はスペースキーの上。これをホームポジションといいます。1つめのルールはね、指は必ずこのホームポジションに置くこと。そして、他のキーを打ったらすぐにまたホームポジションに戻すこと。2つめのルールは、入力するときは絶対にキーボードを見ないこと。この2つを守れば必ずタッチタイピングできるようになります」
そうだ、タッチタイピングにも原理原則がある。
私はFさんがどのようにしてタッチタイピングできるようになったのかを聞いたことはないけれど、あのFさんのことだ。きっとこの「タッチタイピングの原理原則」を学んで繰り返し練習したのだろうなと、ふと思った。
***
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