メディアグランプリ

現象は思考を飛び越える──「G」との対話──


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:村山葵(ライティング・ゼミ日曜コース)
 
 
かの黒いものは、ツヤツヤとした背中を見せびらかすかのように、台所の壁の真ん中に陣取り、じっと動かない。
白い壁に禍々しい黒一点。
その姿に恐れをなして、私はその場に立ちすくんだ。
 
手を打ち鳴らしてみても、おそるおそる壁を叩いてみても、微動だにしない。
「料理したいんだけど……そこどいてほしいんだけど」
心の中で訴えかける。テレパシーが伝わったらいいのに、という期待もあえなく、そいつは私の必死の訴えかけにも、ヒゲ一本動かさない。
 
しっかりしろ、ただの虫じゃないか。いい大人が。
子供の頃よく捕まえて遊んだ、コオロギの仲間じゃないか。
けれども、そう考えたところで、体は動かない。
「イメージトレーニングが大事」と言うけれど、いざという時に勇気ある行動ができるかどうかは、普段の思考の力だけでどうこうできるものではない、とこういう時に気づく。
 
黒いものから目を離さずに、「自分はなぜ、この虫が怖いのか」と考え始めた。
「突然予測できない方向へ突貫すること」「非常に動きが早いこと」「逃げないで向かってくることもあること」「姿の不気味さ」……
ゲジ、フナムシなど、これら「突発性」「高速性」「攻撃性」「異形性」を備えた虫は、たいがい嫌われる。
 
虫への恐怖はまた、私たちの「皮膚感覚」と強く結びついているように思われる。
人間は「裸のサル」と言われる通り、柔らかく傷つきやすい皮膚が露出していることが弱点だ。もし、体全身が毛皮や殻などで覆われていたならば、虫への恐怖はもう少し薄れるような気がする。
「エヴァンゲリオン」のパイロットの着ているような、全身を覆うタイツのようなスーツがあればいいのに……
 
そんなことを考えながら、相手の様子を伺う。
動けないので、見るしかない。
ピンと伸びた立派なヒゲをくるっと曲げて、口元へ持っていき、根元から先端まで丁寧にグルーミングしている。
よく見ると個性的で可愛らしいじゃないか。
そう思いもするけれど、だからといって、お近づきになりたい気持ちには程遠い。
 
そうこうするうち、5分、10分と時間が経過していく。
空腹感がいや増し、じりじりと焦りだした。
「たかが虫一匹で……」
 
進むか、退くか。
脳内で、忙しくシミュレーションをはじめた。
脳内委員会の緊急招集だ。
「動きの鈍い個体の場合、体力が既に落ちていることが考えられる。よって突進してくる可能性は低い」
「しかし、そう思わせて、顔面めがけて突進してくるケースも考えられるのでは」
「対象は直進運動をする特性があるため、X方向に進んだ場合、Y方向に突然向きを変えることはほぼない。」
「しかし円運動や螺旋運動をする場合もあるため油断はできない」云々……
 
答えが出ない。わが脳内委員会は役立たずだ。
思考が行きつ戻りつしているうちに、頭がだんだん痺れるように疲れてきた。
 
この疲れには覚えがある。
以前に知人から頼まれたことのある「テキスタイルデザイン」の作業だ。
「この布をこの染料で染めた場合、にじみ具合はどうなるか」
「その後に文字をプリントした場合、どうなるか」
など、難題の連続だったが、私は普段はまったく布や染物とは関係のない仕事をしているので、それらの答えを経験から予測することができない。かろうじて、それと少しでも関係しそうな経験を総動員して想像力を全力で働かせるしかない。
しかし実際に作業をしてみると、まったく想像を超えた結果になる場合もある。
特に「染め」などは、どうしてそのような模様ができたのか、だれにも説明ができない現象が多々起きる。現象は思考を軽々と飛び超えるのだ。
 
生き物は、こうした予測不可能性の最たるものだ。
ふと、「これがゴキブリでなくて、野生のトラやライオンや犯罪者だったらどうなるのだろうか」と考え始めた。
もし、なんらかの偶然により、道端で猛獣や凶悪犯罪者に出会ったらどうするか。今後の人生でそれが100%ないとは全く言い切れないにもかかわらず、その時の対処法を私はまだまったく学習していない、考えたこともない。
地震や水害に備えて避難訓練をするように、猛獣や犯罪者と対面した場合のノウハウを習得することも必要なのではないか。
 
人間には「自分に限っては大丈夫だろう」と考える「正常性バイアス」という認識の傾向があるとどこかで聞いたことがある。「自分だけは死ぬことなんてない」「犯罪になんてあわない」「災害にあっても逃げられるだろう」。このバイアスのために、大災害の際に逃げ遅れて亡くなった人がたくさんいたと聞いた。
 
動物園から脱走したトラが電柱の陰に隠れているかもしれない。犯罪者に出くわすかもしれないし、災害に至っては、かなり遭遇する確率が高い。
いまわの際に「しまった、こういう時どうしたらいいか、少しでも知っていれば」と後悔するのかもしれない。「ああ私は、1日何時間もgoogle検索に時間を費やしてきたのに、一瞬でも、トラの機嫌を良くして食べられないで済む方法について調べたことがあっただろうか、なぜ、しなかったのだろうか」と……
 
そう考えて、猛獣や犯罪者に出くわした時のことを考えたこともない、私のような人が大多数である、現代の日本はとても平和な国なのだ、と気がついた。
 
ハッと我に返って、黒いものをもう一度凝視する。
もう0時を回っているはずだ。いい加減、ここから動かないと。
 
思考を止めて、肩をゆるめ、深呼吸する。
 
一瞬ののち、私は何事もなかったように歩き出し、キッチンを出た。チラと振り返ったけれど、ゴキブリは予想に反して、全く動かなかったようだ。脳内委員会が、ワッと声をあげた。
 
次の朝、台所へ行くと、黒いものの姿は消えていた。
朝日に照らされた、いつもの白いなめらかな壁がそこにあった。
 
 
 
 
***
 
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2021-10-06 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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