透明な日常
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:武井啓貴 (ライティングゼミ10月コース)
「※この記事はフィクションです。」
『ああ、しまった。またやっちまった』
そう言って、ノボルは深くため息をついた。右手で握ったドアノブが空回りしていた。ここは地方の田舎町にある古い健康センター。ひと月ほど前にも
ノボルは脱衣所にある同じトイレに閉じ込められたことがあった。建物自体が古く、施設も全体的に老朽化が激しかった。前回のときは、ノボルの声を聞いた他の客に開けてもらえた。外からならドアノブも空回りしないのだ。
しかし、今回は勝手が違った。夜10時の閉店間際で脱衣所はおろか浴室内には誰もいなかった。声を出したところで、誰にも聞こえない。だが、いずれ閉店準備の店員が気づいて開けてくれるだろう。そうに違いない。騒いでも仕方ない。風呂から上がったばかりで裸のままのノボルは、洋式便器に座って気長に待つことにした。ノボルは、おっとりした性格であり、会社でも出世競争には縁のない存在だった。それなりに勤務経験は長かったにもかかわらず、中年になっても何の役職にも就いていなかった。
静まり返ったトイレの中で、ノボルは純子のことを考えていた。健康センターを出たら、急いで彼女のアパートに行こう。シングルマザーの彼女が二人の子供たちと暮らしている部屋へ。そして昨日のことを謝らなければならない。そう思ったら、いてもたってもいられなくなってきた。一刻も早く、ここから出たい。誰かいないのか、店員はどうしたのか。早く来て欲しい。ノボルは立ち上がって、再びドアノブを思いっきり掴んで回してみた。
『おーい、誰かいないか?』
どれほど回してもドアノブは空回りを続けるだけだった。押しても引いてもドアは動かない。ノボルの声も虚しく響くだけで、外からは誰の声も聞こえてはこなかった。ここのトイレには窓がない。ドアが開かなければ、外には出られないのだ。ノボルは、再び便座に座り込むしかなかった。純子がノボルの職場に派遣社員として来た日のことを思い出していた。初めて会った瞬間、不思議な哀愁を漂わせている女だと思った。
『今度、お昼ご飯をご一緒しませんか?』
年増の女性社員から、彼女がシングルマザーであることを聞き出したところで、早速モーションをかけてみた。幼い頃に父親を亡くし、母子家庭で育ったノボルはマザコン気味の性格だった。だが、その母もノボルが今の不動産会社に就職して10年目の春に急死した。乳がんだった。それからさらに10年が過ぎ、浮いた話のなかったノボルにとって純子との出会いは、独り身の寂しさを満たすには十分過ぎるほどの女性だった。
純子と深い中になるまでには、それほど時間はかからなかった。元夫のDVから逃げているため、初めの頃はとても警戒心が強かったが、ほどなくして小学3年生と1年生になる純子の娘たちとも仲良くなった。そして、純子と出会ってから2回目のクリスマスが近づいていた。それまで女性と交際した経験の少なかったノボルは、すっかり有頂天になっていた。自分は女性にもてると勘違いしていた。
ノボルがトイレに閉じ込められてから、果たしてどのくらいたっただろう。何時間、いや何日が過ぎたのか、今ではもうはっきりしない。携帯電話も腕時計も脱衣所のロッカーの中だ。天井の蛍光灯だけが昼夜を問わず同じ明るさで点灯している。空調がきいているのか、暑くも寒くもなかった。やがて蛍光管の端が黒く染まってきたのが見えた。しばらくの間、点滅していたが、突然真っ暗になってしまった。
暗闇の中でノボルは後悔していた。トイレに閉じ込められたことを悔やんでいるのではない。純子と些細なことで喧嘩してしまったことを。そして、純子との日常を壊してしまったことを。人生において大切なことは、色とりどりの刺激的な日々ではない。無色透明で平凡かもしれないが、一日一日を大切に過ごすこと。それこそが必要なことだったのだ。今になってやっとわかった。
どれほどの時が流れただろうか。ある日、暗闇の中に一筋の光が見えた。ノボルにとって、それはかけがえのない光だった。この瞬間をどれほど待ち望んだことだろう。もう大丈夫だ。ノボルの心は喜びに溢れていた。自分の至らなさで、純子に辛い思いをさせてしまった。本心から謝ろう。そして、子どもたちのことも含めて愛していると今度こそはっきりと伝えよう。
しかし、ノボルは外には出られなかった。純子の待つ部屋に帰ることは出来なかった。子どもたちの笑い声が聞こえたような気がした。純子の笑顔を思い出していた。ノボルにはわかっていた。もう、あの部屋には戻れないのだ。自分の居場所は、あそこではない。深い悲しみがノボルの心を満たした。それを振り払おうと、ノボルは笑ってみた。笑顔で純子への感謝の言葉を思い浮かべてみた。しかし、どれも虚しい言葉になってしまうだけであった。やがて、ノボルの心に深い虚無が訪れた。すべての思い出をかき消すように。
『何だこれは?』
重機オペレーターの男は、一旦ヘルメットを脱いで額の汗をぬぐってから、便器の後ろに貼り付けられていた八坂神社の大きなお札を怪訝そうに眺めていた。よく見ると、誰か人の名前も書いてある。しかし、誰が何のためにこんなことをしたのだろうか。これまで数々の解体現場で作業をしてきたが、これまで一度もこのようなことは見たことがなかった。すると、近くにいた廃材の片づけ担当の高齢の作業員が言った。
『今から10年ほど前のことだけど、ここのトイレの中で亡くなった人がいたそうだ。心臓麻痺による突然死だったらしい。独身で身寄りもなかったから、健康センターの社長が懇ろに葬ったと聞いたことがある。』
『それじゃ、このお札は』
『たぶん、供養のために貼っておいたのだろうよ』
そういって作業員は、再びコンクリートの破片を片づけ始めた。
『えっ、いま何か言ったか』
重機オペレーターの男は、大きく右手を振った。
『いや、何も』
『そうか、気のせいだったか。やっちまったとか何とかという声が聞こえたような気がした。まあいい、暗くなる前に早く片づけちまおう』
***
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