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「言うだけなら、タダやんけ」 チャンスを逃さないために


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記事:喜多村敬子(ライティング・ゼミ10月コース)
 
 
「言うだけなら、タダやんけ」
これは、夫が若い頃に会社の同期のA君に言われて、
カルチャーショックを受けたひと言だ。
そして、あなたがチャンスを拾えるかもしれない言葉。
 
どこで夫が言われたかというと、
電卓を買うというA君について行った都内の会社近くの家電量販店。
ここで大阪出身のA君が電卓を値切った。東京育ちの夫はそれにびっくりした。
びっくりした夫にA君が明るく「言うだけなら、タダやんけ」と言ったのだった。
確かに、言葉にお金はかからない。
ダメ元で値切ってみるのは、大阪人A君にとっては当たり前のことだった。
大阪ではデパートでも値切るものだそうだが、東京では違う。
だが、意外にも値引きをしてくれたという。
中部地方出身の私にも大阪人A君の話は新鮮だった。
こういう明るい軽いノリで聞いてみていいんだ、
何であれ聞いてみれば、違ってくるものだと思った。
そして、それができれば、私の母は修士号を取れていただろうと思った。
 
終戦時に小学生だった母は、
その世代の女性としては珍しく、恵まれたことに大学院の修士課程に進んだ。
専攻はドイツ文学で、家族と住む自宅から都内の大学院に通っていた。
修士課程1年目に京都の父と見合いをして、結婚が決まった。
できるだけの勉強をしようと頑張っていた甲斐があって、
あとは2年目に修士論文を書くのみとなっていた。
それが通れば、修士号を取れるはずだった。
だが、大学院を中退して、京都に嫁いだ。
1年ほどして、父の仕事のために中部地方に夫婦で引っ越し、私が生まれた。
 
あと1年だったのに、あとは修論だけだったのになぜ中退したのか、
私はずっと不思議に思っていた。
母の3人の弟妹は修士の次の博士課程にまで進んだので、
よけいに不思議だった。
 
ドイツ文学から離れ、専業主婦だった母だが、
私は母の「ドイツ」がらみの事をいくつか覚えている。
例えば、母の歌ってくれた子守唄の中には、ドイツ語の歌が1曲だけあった。
「シューベルトの子守歌」だった。
なぜそんな意味不明な歌を母が歌ってくれるのか、子供だった私には分からなかった。
それでも、私がその歌詞の一部を今も覚えているということは、
母は「シューベルトの子守歌」を頻繁に歌ってくれたのだろう。
 
母40代の頃にはドイツ文学の会報が定期的に届いていた。
高校生の私は、いつからそれが来るようになったのか知らなかった。
母がテレビでNHKのドイツ語講座を見ていることもあった。
その後、ずいぶん経ってから会報が来なくなっていた。
どんな気持ちで会報を手にしていたのだろう、そしてやめたのだろう。
もしもあのまま院をやめていなかったらと思う事も多かっただろう。
修士課程の先の事もかつては考えていたのだろうか。
 
50代の終わり頃、京都で祖父母の世話をしていた母は、
親類からドイツ人女性の手伝いを頼まれた。
その女性はギリシア・時代の美術の専門家で、
小さな美術館の収蔵品の鑑定を依頼されて来日、親類宅にホームステイしていた。
一か月ほど手伝った母は、数十年ぶりにドイツ語を使ったが、
それなりに通用したと帰省した私に嬉しそうに報告した。
その様子から知的な刺激を受け、充実していたのが分かった。
 
母が70代に入った頃、父の予想外の発言があった。
久しぶりに実家に両親と妹と私の家族4人がそろって、
思い出話をしているうちに、両親の結婚の時の話になった。
そこで私は、以前から気になっていた「大学院を中退した理由」を母に聞いてみた。
母曰く、縁談がまとまり、さあさあ結婚式をという流れの中、
「もうちょっと待ってください、修士課程を卒業したいのです」
とは言いだせない雰囲気だったという。
すると、それを聞いた父が、
「なんだ、言えばよかったのに」とあっさり言った。
 
母は絶句した。
 
考えてみれば、父は理系で博士号を取った人なので、
婚約者が修士課程をきちんと修了したいと言えば、
理解を示してもおかしくなかった。
 
父方の祖父も応援したかもしれないと私は思った。
なぜなら、祖父は、父に縁談が来た時に、
母が自分と同じ大学だったのも気に入って、父に薦めたから。
母はその母校の大学院に進んでいて、しかも祖父のお気に入りの嫁で信頼も厚かった。
そんなこんなを考えると、母の希望は全く無理な話ではなかった。
 
昭和の長男の嫁として同居予定の身としては、
言い出しにくかっただろうとは思う。
それでも、母は、「きちんと修士課程を終わりたい」と言ってみれば良かったのだ。
子育てが一段落した時に、もう一度学びたいと思ったのでは?
その時も、ダメ元で聞いてみてもよかったのに。
 
父のあの一言に母がどう思ったのか、あの時に聞かなかった。
なんだか気の毒で、今もそのままずっと聞けないでいる。
 
「答えを聞いてみるまで、答えはNO」というのを巷で聞いたことがあるけれど、
まさに母の修士課程はそうだった。
誰にとっても、聞いた結果の答えがYESだとは限らないし、NOとも限らない。
聞かなければ分からない。NOだったら、次の作戦を練れば良い。
自分の思っていることは自分にしか分からない。
相手の思っていることも、聞いてみないと分からない。
聞きにくいことでも、ちょっと勇気を出して自分から言わなければ始まらない。
 
そうは言っても、正直なところ、
情けない事に私はなかなか言い出せないことが多い。
そんな時は、絶句した母を思い出し、
「言うだけなら、タダやんけ」と心の中で言ってみる。
すると、このセリフの軽い明るいノリが背中をいつも押してくれる。
だから、これは言い出せない時の私のお薦めの呪文です。
 
 
 
 
***
 
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2022-02-02 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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