記事:愛は破れたメモ
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ヒロキ(ライティング・ゼミ2月コース)
母は父のことを苗字にさん付けで呼ぶ。我が家がサイトウ家だとしたら、夫に向かって「サイトウさん」と話しけるということだ。これは二人称だけでなく三人称でも同様で、母は私に父のことを話すとき「サイトウさんは〜」と話しはじめる。一方、父の辞書には母を意味する単語がなかった。「おい」とか「なあ」とか言って話しかけるし、私に母のことを話すときも、「お前の母さん」や「あれ」などと言い、決して名前を言わなかった。ちなみに2人とも私のことは名前で呼ぶ。私の名前はヒロキだから、母は「サイトウさん、ヒロキ」と話しかけるし、父は「おい、あとヒロキ」と話しかけてくる。
そのような家庭で生まれたので、私は子供のころ、名前とは子供にだけある特別な記号だと信じていた。幼稚園で大人に名前があることを知ってからは、それを認めたくなくて、みんなが「ハナ先生」と呼ぶなか、ひとりだけ「ゴトウ先生」と呼び意地をはっていた。しかし、いくら意地をはってもこちらが少数派であることは明らかだ。だからそのころから、子供心に我が家は他の家庭と違うことを感じていた。うちはうち、よそはよそ、である。基本的には何の問題もなかったが、ひとつだけ不安があった。
もしかしたら、自分は両親の子ではないのではないか。
友達のコウスケくんの家に遊びに行けば「パパ」「ママ」とお互いを呼んでいたし、2人が仲睦まじいことが伝わってきた。その様子は、うちとは違うように思えてならなかった。
お互いの呼び方以外にも、変な点はある。
例えば母はパーソナルスペースが広く、家族で映画館に行っても、わざわざ別の列の席を選んだ。父は食卓を囲むことが苦手なのか、ソファの前にあるサイドテーブルでひとり食事をした。我が家のダイニングテーブルは、父の席に郵便物を置いていた。それが理由かは覚えていないが、私はよく外食をせがむ子供だったと思う。何を食べたいか聞かれたとき、外食ばかり答えていた記憶がある。困ったように笑う父の表情は、金額的な問題だけが理由だったのだろうか。
思春期になり、私も誰かに恋をしはじめてから、はたして両親の間に愛はあるのかという疑問が浮かんだ。このころには自分が両親の子であることは疑っていなかった。だが両親は何かの間違いで自分を授かってしまい、中絶することは良心が許さなかった比較的善人の男女というだけの関係なのではないだろうか。ともすれば、私自身両親に愛されていない子供なのかもしれない。
ただ、この悩みを抱えたときには私はもう高校生で、しかも寮で暮らしていた。確かめる機会が訪れないまま大学生となり、一人暮らし。そのまま都内に就職したので、ついに両親と同居することはないまま、ある日ふと母が死ぬことになった。もう手の施しようのないレベルになってしまった肺がんで、もって2ヶ月らしい。
母は家で死ぬことを嫌がって、終末ケアの施設に入院した。この3畳の個室で死にたいそうだ。入院してすぐ、母は墓はいらないと念押しした。樹木葬か、粉々に砕いて海にまいてくれと父に頼んでいた。そして身の回りの整理を手早く終えると、あとはただ、本を読んで過ごした。途中からモルヒネの影響で前後のくだりを覚えるのが難しくなると、どこから開いても読める辞書を買ってくるよう私に頼んだ。またしばらくして声を出すのがつらくなってからは、メモ帳にいろいろなことを書いていた。主に親族が恩着せがましく見舞いにくることへの悪口だった。こうなっても、母は自分の空間に人を入れたがらない性格だった。
ある日、母と私の2人だけが病室にいた日があった。他愛もない思い出話をした。このころにはもう自分が話すばかりだったので、すぐにネタが尽きた。思い出の多い家庭ではなかったのだ。話題に詰まった私は思い切って、子供のころ自分が両親の子供ではないのではないかと疑っていたことを話した。そしてなぜ父をずっとサイトウさんと呼ぶのか。
母は目を細めてから、メモに書いた。
“あの人を好きになった瞬間の呼び名で呼び続けたかったから”
私にそれを見せてから、母はすぐにメモを破って捨てていた。
母が亡くなったのは、その3日後だった。
葬式で初めて、母の名前を呼ぶ父を見た。
母の言うことに絶対服従だった父だが、墓はいらないという母の希望は叶えなかった。墓前に花をそなえ、それが枯れる前に次の花を持って会いに行く。墓を建てたその日から、今日までずっと続いている。
破れたメモは辞書の栞として私の手元にある。私も母の言うことを聞かなかった。
***
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