二つ名をもつ母とその娘のヨソとはちょっと違う日常
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記事:奥志のぶ(ライティング・ゼミ4月コース)
「なんでうちのママには名前が二つあるんやろか?」
幼い頃、不思議に思っていた。私の母には二つ名がある。といっても、「鋼の」とか「炎の」とかのカッコいい漫画チックなものではない。ただ本当に名前を二つもっていて、それを使い分けて生活しているのだ。こう言うとなにやら怪しげだが、決して犯罪がらみなことをしているわけではない。いたって平凡。どこにでもいる善良な人間だ。
母の名前はT美、戸籍はS子。二つの名前に類似性はない。だが、戸籍に載っているからには母の真名はS子ということになる。当然ながら免許証も保険証もマイナンバーカードも記載されている名前はS子だ。家族の間ではT美、ご近所からも幼なじみからもT美で呼ばれている。つまり、日常生活ではT美、公的なことはS子。ちょっとややこしいかもしれないが我が家ではごく自然なことになっている。しかし、こうして文章にして人様の目に触れることで、もしかしたら社会的なお咎めを受けるようなことだと指摘されるかもしれない。そこは少々気にはなるが郵便物も日常使いのT美で届くのだ。まず問題ないということにしておこう。母曰く、「私のことをS子と呼ぶ人は誰もいない。そもそも私が本当はS子だということを知ってる人すらいない」という。
母は昭和20年代前半に生まれた。まだ戦後まもない頃だ。当時のことは話に聞くだけで実感としてとらえることはとうていできない。苦労の多い時代だったと思うが、なかには「ウソでしょ?」と言いたくなるほどツッコミどころ満載なこともある。今と比べるとずいぶんとおおらかな時代だったというべきか。母の二つ名の秘密もその辺にあるかもしれない。
「だからさぁ、なんでママには名前が二つあると?」
「一回死んだからね」
ますますわからない。目の前の母は生きている。いくら子供の私でも一度死んだものは生き返らないということはもう気づいていた。小さなころから同じ質問を何度も投げかけ、いま思えば私が理解できるようになったと思われたころにようやく回答を得た。そして、それは私の成長とともに理解が深まっていったのだった。
母は冬のとくに寒さが厳しい日に生まれたらしい。私にとっての祖父母、母の両親には初めての子供だった。S子と命名され、役場にも届を出した。きっと健やかな成長を願っていたことだろう。しかし当時は今のように万全の環境が整っているわけでもなく、母は生まれてすぐにひどい風邪をひいた。赤ちゃんの風邪は命にかかわる。回復を願って神にも仏にも祈りを捧げたが状態は悪化の一途。もう助からない……。誰もがそう思ったそうだ。実際に呼吸も止まったりしたらしい。それでも、生まれたばかりの赤ちゃんの命をなんとか救おうと、藁にもすがる思いで私にとっての曾祖母、母の祖母が奇策を講じた。
「S子は死んだ。名前を新しくして生き直させてやれば助かる。今からこの子はT美や!」
かくして母は生き残った。まさに神仏のご加護か、母は命を取り留め、めでたく二つ名をもつ人生を歩むこととなったのだ。戸籍はすでにS子と届け出ている。いうなれば母の家族が勝手に名前を変えて、それを押し通したということだ。ちょっと今では考えられない。だが当時はそれを許すおおらかさがあったのではないかと思う。聞けば祖父母の時代はもっとひどかったらしい。まだ生まれてもないのに早々と出生届を出したり、生まれて何か月もたってからようやく届け出たり。どこどこの誰だれさんは本当は〇〇歳だけど、親が届け出てなかったもんで〇〇歳になってる、なんて話も聞いたことがある。昔は適当だったのよ、と母は笑って話す。今ならわかる気がする。役場に届け出た大事な名前をなかったことにしてまで、母を生かそうと必死になったおばあちゃんたちのことを。いつも母は二つ名のことを冗談めかして話すが母だってわかってるはずなのだ。名前をつけ直すことで命が助かるなんて、科学的な根拠はありもしないのだから。
もしも死にかけたりしてなかったら、母には戸籍どおりS子として別の人生を歩んでいたかもしれない。でも、もしそうだったら私は生まれていたかどうか。母の人生は決して平たんな道ではなかった。それがわかるくらいには私も歳をとった。光り輝くようなバラ色の瞬間は数えるほどしかないだろう。濁った水たまりに身体がとけていくような苦労も味わったはずなのだ。それでも、それでもやはり母にはT美としての人生を生きてもらわなくてはならない。私と出会うために。私と出会ったことは母にとって最大の幸福だったことを私は知っている。私が生まれた瞬間の、色あせた写真の裏に母の筆跡でそう書いてある。やはり、私の母はT美、ただ一人。
「お母さん、ここに名前書いとって」
「どっちで?」
「S子たい。保険の受取人やから公式の方で。T美は身分証明ができんやろが」
「はいはい、わかった、わかった」
二つ名をもつ母とその娘は今日も怪しげな会話を繰り広げる。これこそが、我が家の日常である。
***
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