もうどこにもない薬
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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:光山ミツロウ(ライティング・ゼミNEO)
「あれ! ミツさんですよね! どうも! うわぁ、嬉しいなぁ! この前は楽しかったですねぇ。あのあと、ちゃんと帰れました?」
カウンターの末席に座ろうとする私の顔を見留めるなり、破顔一笑、ほろ酔いの若い男がそう声をかけてきた。
「あっ! いや! あの、えぇ、帰れた……? うん、いや、たぶん帰れま……した、ね。いや、でも、ホント楽しかった……ですよねぇ。いやぁ、どうもどうも、ホントにどうも」と私。
白々しい私の生返事に、男は察しがついたようだった。
「あぁ、わかった、ミツさん、オレのこと、覚えてないんでしょう? マジですかぁ! んだようもう、この前もここで一緒に飲んだじゃないですかあ! ったく、しょうがねぇ」
苦笑する彼を前に、私はなぜか悔しさを感じた。
「いやいや、何言ってるんですか! 覚えてますよ!」
負けてなるものか。
私は意地になって食い下がった。
というのも、いくら末席とはいえ、私も、いつ何時、敵と相まみえるやもしれないサムライの血を引いている(かもしれない)日本男児の端くれ。
前後不覚になるまで酒を飲むなんてことがあってはならないし、ましてや、兄弟の盃を交わした相手の名前を忘れる……なんて粗相があっては、サムライだった(かもしれない)ご先祖様に顔向けができようもない。
ええい、ままよ!
私はいよいよ本格的に意地になって、イチかバチかの勝負に出た。
「何言ってるんですか、覚えてますよ! ◯◯さんでしょう! 覚えてますってば! 忘れるわけないじゃないですかあ!」
どや! 兄弟! ここで会ったが百年目! また盃を交わそうではありませんか、ねぇ!
「いや、自分、名前は△△っす」
「えっ」
騒がしいはずの店内が一瞬、真空パックでもされたかのように、無音になった。
いや、正確には違った。
真空パックされたのは、店内ではなく、私自身だった。
兄弟の盃を交わしたと思っていた相手の名前を、自信たっぷりに、全力で、盛大に間違ってしまったのだ。
彼の名前は◯◯ではなく、残酷にも、△△だった。
それを聞いた瞬間、真空に閉じ込められた私の口からは「うっ」という、うめき声(のようなもの)が出てくるばかりで、言葉を発するどころか、息もできないほどであった。
体も、頭のてっぺんから足の先まで、金縛りにあったように、寒々しく固まってしまった。
一瞬、スーパーの冷凍コーナーに冷たく転がっている、真空パックされた魚肉とか畜肉になったような、そんな気分だった。
狭い店内に充満した熱気をよそに、私ひとり、極寒だった。
そんな、寒々とした真空パックの私を前にして、先ほどまで苦笑していた彼の顔からは、その苦笑さえも消え、次第に影が差しはじめていた
嗚呼、やってしまった、と思った。
小さな意地が、大事故に繋がってしまった。
「すみません、どなた様でしたでしょうか。当方、先日はああ見えて、酩酊しておりまして」
そう素直に言えなかった自分が情けなかった。
と同時に、追い詰められてもいた。
曇天の空のもと、寒風吹きすさぶ鉛色の大海原に切り立った、断崖絶壁。
私はその突端に追い詰められていた。
盤石と思っていたアリバイが、目の前の人情派刑事によって全て暴かれてしまった、サスペンスドラマの犯人役のような……そんな絶望的な気分に、私は陥っていたのだった。
ドラマだと、ここから私は膝から崩れ落ち、本当は△△さんの名前を全く覚えていなかったこと、助平心にも意地を張って覚えている振りをしたこと、その他、ご先祖様がサムライかどうかも分からないのに、サムライを気取ってしまったこと……等を泣き叫びながら釈明、それを黙って最後まで聞いてくれた人情派刑事に抱きかかえられ、パトカーの後部座席に乗り込む。
そうして、出所後は士農工商の別に関係なく、誠実に正直に、まっとうな人生を歩むように、との人情派刑事のありがたいお説教に涙しつつ、パトカーに乗ってその場を後にするのだ。
そこに叙情的なエンディングテーマが、これ見よがしに流れはじめ、何も知らない純真無垢な婚約者の「わたし、いつまでも待ってる」とのセリフとともに、ドラマは見事な大円団を迎えるのであった。
が、しかし、である。
残念ながら、私が今いるのは、都会の片隅の、現実世界の小さな酒場。
目の前では、酒焼けしたしゃがれ声の女店主と、その愉快な仲間たち数名が、赤ら顔でニヤニヤ、卑猥な酒場談義をしているばかりで、人情派刑事のありがたいお説教もなければ、純真無垢な婚約者もいない。
ましてや、叙情的なエンディングテーマがタイミング良く流れてくることなど、万にひとつも、いや、億にひとつもなく、現実は無残にも、ネバーエンディングなのであった。
無論、意を決して、自らエンディングテーマを流す……つまりは、露骨に逆ギレをする等してこの場から立ち去るといった暴挙に出ることも、一瞬だが頭をよぎった。
が、今来たばかりの私が、突然に立ち去るのは、馴染みであるところの女店主に対して失礼だし、何と言っても、ここは勝手知ったる大人の社交場、そんな子供じみたことが出来るはずもない。
かといって、ここから失った信用を取り戻すべく、変に前向きに、例えば陽気なギャグを連発する等しても、全く効果がない、というか逆効果……なのは、△△さんのドン引きした表情を見れば、すぐにわかった。
真空にパッキングされ、かつ、断崖に追い詰められた情けない私は、△△さんからチラチラと、怪訝な視線を送られながら、末席で、よそよそしく時間を過ごすしか、今宵は何も出来ることがないのか、と悲嘆に暮れたのだった。
「もう、やめようかな」
一瞬、私は思った。
「もう、こんなお酒、やめようかな」と。
私は、断崖から身投げをし、後日、波打ち際に土座衛門となって打ち上げられた自分の無残な姿を想像し、身震いをした。
「このまま飲み続けたら、さらに不義理が高じて、いつか本当に土座衛門になってしまう」
私は、私自身に献杯をするような気分で、静かに、そう思ったのであった。
しかし、である。
そんな私にも、唯一の希望というか、今宵、たったひとつだけ出来ることが、まだあることに、私は薄々気づきはじめていた。
というのも、私はとある文章を思い出していたからだ。
思えばその文章は、これまでの幾度とない酒場でのピンチを、良くも悪くも救ってくれた、私のヒーローのような文章だった。
それにしても、つい先日に一緒に飲んだ人物の名前は全力で忘れるのに、一体どうして、何年も前に読んだ文章は、すぐに思い出せてしまうのか。
自分でもどうかしていると思うが、ここにその文章を引用してみたいと思う。
『わたしは酒をグラスに注ぎながら、これこそが飲酒の問題点だと思った。何かひどいことが起こると、忘れようとして酒を飲む。何かいいことがあると、お祝いだと称して酒を飲む。そして何も起こらないと、何かを起こそうと酒を飲む』
(チャールズ・ブコウスキー著/中川五郎訳『詩人と女たち』河出文庫より引用)
つまり、今宵の私に残された、唯一出来ること、そう、それは目の前に先ほどからずっと置かれている酒を、いつにも増して、楽しく飲むことだった。
酒呑みにつける薬は、もうどこにもなかった。
***
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