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人生に苦みは必要か


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:黒﨑良英(ライティング・ゼミNEO)
 
 
私、ゴーヤが大好きである。
王道のゴーヤチャンプルーは当然として、ただ炒めて醤油で味付けしただけでもおいしい。おひたしも食べたことがあるが、これも結構いける。
 
なにゆえこの少々グロテスクな見た目の植物、というか食物に惹かれるか。それはやはり、その苦みにあると思う。
 
苦瓜(ニガウリ)と別名されるだけあって、ゴーヤは苦い。これがために苦手な人もいるであろう。
だがそれがいい。この苦みがあることがゴーヤの最大の魅力であり、おいしさであると思う。
 
人間というのは矛盾した生き物である。
長い歴史の中で、食の美味しさを追求してきたと思ったら、「苦み」という美味しさと真反対の位置にあるものに価値を与えるようになった。
 
コーヒー、ビール、野菜類……苦みを最大限に利用し、美味しさに変換するこの技術、いや、技術というより、人間の性質によるものか、先達の知恵と工夫に脱帽し、感謝せざるをえない。
 
これが子どもだったら単純だ。苦みは全て毒物とみなし、受け付けないようになっている。もちろん一部には例外の人もいるかもしれないが……
少なくとも、大人となった人間は、苦みを楽しむことができるわけである。
 
そう、苦みは人間にとって必要不可欠なのである。
言葉通りの味覚にしても、また比喩としての苦境にしても。
 
私自身、平凡で無難な人生を送ってきたつもりである。
確かに幼少期に腎臓を患い、苦しいことや煩わしいことを経験してきたが、周りには助けてくれる良心的な人々が大勢いたし、大人になってからは職業にもありつけ、念願だった地元への帰還を果たした。
仕事はややブラックながらも、良い同僚や先輩にも出会い、人間としての成長もできてきたように思う。
そう、いわば、苦みのない人生を送ってきた。
 
ところが、言葉通り、人生そんなに「甘くない」のであった。
 
最近になって、持病が悪化、ついに自らの腎臓を諦め、その役割を機械に任せる「透析治療」を行うこととなった。
 
断腸の思いだが仕方がない。それで体調が回復するならば、よしとしよう。
そう思うことにして、私はその治療を選択した。
その結果、顔色が良くなってきたと言われたり、心なしか元気が出たり、要はよい結果が得られてきたのである。
 
だから結果オーライということで、私はこの選択を受け入れたわけであるが、ここでもまた「甘くない」ことが起こった。
 
どうも私の血管は細いらしく、せっかく手術した治療用の血管が、詰まってしまうようになった。
しかも頻繁に、である。
 
薬とマッサージで元には戻るものの、こう頻繁になってしまっては、治療どころではない。
 
なるほど、人生は甘くなく、人が成長するには苦みが必要かもしれない。
 
だが、ここまで来るとそれも疑問に聞こえる。本当に必要か? 無ければ無いにこしたことはないのではないか?
 
それで人間ダメになったと聞いたこともないし、そりゃあ人間として成長するかもしれないけれど、そんな苦みなどなくてもある程度のできた人間にはできるのではないだろうか。
 
そも、なぜ人間は苦みを求めるのか。
良薬口に苦し、だからだろうか。苦みの中に、本当に必要な良質なものが隠れていることを知っているからだろうか。
いや、だからと言って、明らかに苦いものだけに質の良いものがあるとは限らない。本当の毒である場合もある。
 
苦労は買ってでもしろ、だからだろうか。苦労した分だけ人は成長し、他者の痛みが分かるようになるからだろうか。
いや、行きすぎた苦労は時に人を壊す。教師という職業柄、そういう家庭を多く見てきた。
 
どれももっともで、けれど説得力に欠けている。
 
イギリスの哲学者、ジョン・ステュアート・ミルはその著書『自由論』の中で、「愚行権(the right to do what is wrong/the right of(to) stupidity)」という言葉について言及している。
これは、他者から見れば「愚かで間違った」判断や行いだったとしても、個人の領域に関する限り誰にも邪魔されない自由のこと、であるという。
 
例えば、私の故郷であり在住の地は山梨県であるため、正月には毎度のように、富士山で遭難した人の事件が報道される。
引きこもりがちな私には、なぜそのような、命を捨てに行くようなことをするのか、と毎回思うわけだが、先ほどの愚行権に照らし合わせれば、それは登山者の自由の一つであって、誰かに迷惑をかけない限り(救出の時点で迷惑を掛けているわけだが、救出は前提ではない)、誰にも禁止されるようなことではないのである。
 
なぜわざわざそんな危険や苦労を冒すのか。登山者本人に聞けば、当然答えは返ってくるであろう。頂上に登ったときの達成感や、山を登っている最中の無心になれる感覚が云々……私の友人にも登山好きな人がいるが、登っている最中は日々悩ませられている煩わしい案件から解放されるから、と言っていた。
 
ただ、どちらにせよ、苦労や苦みを得ることは、自由であって義務ではない。
そう、私たちは苦しみや苦みから解放されてしかるべきなのだ。
 
と言って、それができたら誰でもやっている、という話である。
どうやら、人生における苦労は半強制的な、義務に近い自由であるらしい。
 
この義務のつらいところは、いついかなるときに現れるか、またその種類は何か、内容も時期もあらかじめ分からないことである。
なぜこんなときにこんなことで、と嘆きの深淵にたたき込まれることが多くある。
 
常々思う。人生にはスパイスもアクシデントも不要である。素材そのままの味で結構。最近の人々が思っているように、平々凡々な暮らしでよいのだ。
アンケートの一つでもとってみてほしい。皆一様に、「普通がいい」と答えるであろう。
 
テレビに取材されるような波瀾万丈な人生はいらない。ただ静かに暮らせれば、それでいい。そう望んでもいいと思う。
 
私自身、そう熱烈に思っているのに、白状すると、それとは反対の矛盾した感情も実は持っている。
 
すなわち、平凡に、幸せに、生きてきたことである。
なんならそのこと自体に劣等感や罪悪感さえ、感じるときがある。
 
なぜなら、苦労は人生を刺激的なものにし、人を奥深いものにするからである。
特に物書きの方の人生を聞いていると、壮絶な生き様を聞くことがある。
家庭は崩壊、いじめを受け、さらに愛する人と別れ……等々。
 
それからすれば、幼少期の病やそれによる治療などは、それこそ怪我の一つにもならないのではないか。
 
円満な家庭で育ち、周りの同級生からは優しくされ、愛する人はほぼ健在である。病のように身体的な痛みより、心の痛みの方が、人間の痛みとしては辛辣である。
 
だから、その痛みを糧に小説を書いたり、文章を書いたりする人の、何と鬼気迫る力のあることか。
深みがあり、説得力があり、力がある。そういう文章を、私は数多く読んできた。
 
無論、好き好んで苦みや痛みを摂取してきたわけではあるまい。
しかし、計らずも受けた苦労・苦みの数だけ、人は成長する。
 
おそらく、ここなのだ。
人間が苦みを必要とする理由は。
 
もしかしたら、平々凡々な暮らしを送ることも、人間はできるのかもしれない。
しかし、より高度な人間として成長するならば、苦みや痛みはあえて通らなければならない道である。
 
平々凡々に暮らしたいなんてウソだ。人間にはより高度になろうと、成長しようとする意志がある。
もし、本当に平々凡々な暮らしがしたいというのならば、それはその人が、平凡な暮らしをより高度な水準に見ており、現状が辛辣であることを意味するのではないか。
 
身も蓋もなく白状しよう。私は成長したいのだ。
もっと、よりよい文章を、より面白い物語を書けるようになりたいのだ。
しかし今までの人生を変えることなどできず、私は今まで満ち足りた生活を送ってきた。
書かれた文章も、それに見合う、薄っぺらいものになっているであろう。
 
なればこそ、これからの苦境を甘んじて受け入れよう。
それが自分を成長させるものだと信じて、ただひたすら、淡々とその道を歩もう。
 
これらの宣言は私にとってはとても恥ずかしいものである。
自らの不出来をさらし、それでもこうなりたい、と、いい年をして夢を追うようなことを言っている。
 
だが、読者諸君はこれを看過していただきたい。
大丈夫、ただの他人事である。あなたに迷惑はかけない。それこそ「愚行権」の行使である。
 
ただもし、あなたの身近な人がこのようなことを言ってきたら、どうかそれを責めないでいただきたい。
いや、言葉では否定してもよい。だが、心持ちは、その人に寄り添っていただきたいものだ。
 
なぜなら、それが苦労を買った人の覚悟だからである。
苦しみを、苦みを買った人の覚悟だ。
 
他者からの反対も、その一つということなのだ。
 
図らずも苦境に立たされた人、自ら苦しみの道に進んだ人。
私は今までの人生でそれらの人を多く見てきた。
時には、それが身近な子どもだった場合もある。
教師として、生徒の家庭に深くは関われないが、それでも、彼ら彼女らは生き延び、強い人間になると思う。
 
世の中は苦渋に満ちている。
自分から選ばずとも、向こうから来る方が大半だ。
その先に幸せがやってくることも到底想像できない。そんな絶望だってやってくる。
 
他者の人生に対して、私は無責任なことは言えない。
耐えろ、とも、逃げろ、とも言えない。もちろん、逃げて解決できるならば、それにこしたことはない。
だが、往々にして、やってくる苦労からは逃げられない。
 
だからつらいのだ。それに負けて自ら命を絶つ人だっている。自ら破滅を選択した人だっている。
 
そういう結果を目の当たりにしているから、次は自分だと不安になってしまう。その不安がよりいっそうの不安と苦しみを生む。
 
今、世の中の人々は余裕がない。苦労や苦渋を受け入れる余裕がない。自分のことで精一杯で、他者のことを考える余裕がない。
その余裕のなさは悪意となって、誰かの苦渋となる。
 
この負のスパイラルは、どこかで断ち切らなければならない。
 
ならば、私はその苦労を受け入れ、その一助となろう。
苦みにも、痛みにも慣れている。
能力はないが、それでも気持ちの余裕はある。
経験はないが、それでも寄り添うことだけならできる。それが、効果的かどうかは分からないが。
 
人生がどのような道であろうと、時間は確実に過ぎていく。
自分がどのような選択をしようと、だ。
だから、せめて自分は選択だけは悔いが残らないようにしたい。もちろん、難しいことは分かる。悔い無き選択など、夢物語かもしれない。
でも、それを含めて、自分は選択をしたい。その道が、平凡であろうと、苦渋の道であろうと。
 
猛暑の中、季節は確実に移りゆく。
暑さという苦渋はまだまだ続きそうだ。
 
となれば、ここはゴーヤという苦みを受け入れ、体に喝をいれよう。
 
もちろん、デザートには甘甘のアイスを添えて。
 
 
 
 
***
 
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