ショート小説『真夏のお魚電車』
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:鳥井春菜(ライティング・ゼミNEO)
※この記事は、フィクションです。
まるで、ずる休みをした学生みたいな気分だ。どこまでも続く緑を眺めながら、夏実は鈍行列車に揺られている。普段がデスクワークばかりのせいか、昼間の電車というのはちょっと特別な感じがする。日頃、いかに朝と夜にしか外に出ていないのかということに気がつかされる。
そういえば中学生の頃に一度だけ、「具合が悪くなった」と嘘をついて早退したことがある。進学校特有の受験期の緊張感に居た堪れなくなってしまったのだ。
ーーもうずいぶん、大人になったのに。
なぜか、気持ちはあの日の帰り道に似ていた。本当はどこかもっと別の場所にいなければならないのに、こっそりそこを抜け出してきたような少しの背徳感と、けれど、大きな安堵が胸に沁みていく。
今日はかなり田舎の工場を訪問したものだから、本当に見慣れない風景の場所まできている。もしかすると、先輩がこの現場訪問に夏実を推してくれたのは、最近の煮詰まり具合に気が付いてのことだったのかもしれない。延々と広がる田んぼと、その奥に連なる山々を眺めているとそんなことを思った。
あぁ、そうだ。電車内に人はまばらで、それも不思議な感じがするのだ。
人はポツリ、ポツリと間隔を開けて座っていて、乗っているのもミニカートを目の前に置いたおばあさんや、子供を連れたお母さんだ。通勤のときのぎゅうぎゅう詰めの電車とは全くの異空間で、なにやらどこか懐かしいような、昔見た風景の中にタイムスリップしたような気持ちになる。
ちょうど目の前では、小学生くらいだろうか、兄弟が座席に膝立して外を眺めていて母親から「足を上げるなら、靴を脱ぎなさい」と怒られて……
ーーいいなぁ、夏休みかなぁ。
しみじみと、羨ましい。社会人三年目は、気を抜くとすぐに泣き言が出そうになる。
こんな真昼の電車には上司もクライアントもいなくて、不意に心が緩んでしまう。久しぶりに炎天下に汗を流して歩いたせいだろうか。冷房のきいた車内に座っていると、じわじわとあのプールの後のような倦怠感が体に広がって、なんだかもうそれに身を委ねてしまってもいいような気持ちになる。
「お魚! お魚!」
夏実の心の中とは裏腹に、むじゃきな兄弟が、母親に一生懸命アピールしている。電車の中吊り広告には『イルカに会いにいこう!』の文字とともに水族館のポスターが一列に並んでいた。
「はいはい、また今度ね。静かにしてね」
この様子だと、いつもわんぱく兄弟に手を焼いているようだ。男の子たちは足をばたつかせながら、ずっと外を眺めている。
ーー何がそんなに楽しいのやら。
微笑ましくて、思わず夏美もその風景を同じ目線で見たくなって、窓の外へ目をむける。電車はちょうどホームに滑り込んだところだ。反対側のホームには快速電車が待機していて、線路沿いのフェンスには、朝顔がまきついてたくさんの青い花を咲かせていた。
あれっ、と思ったのは次の瞬間だった。
銀色の車体に、赤と青のライン。お馴染みの快速電車が強い日差しを反射しながら走り出したとき、夏実は思わず目を細めたのだ。眩しかっただけではない。一瞬、大きな銀色の魚が鱗を光らせながら泳ぎだしたように見えたからだ。
目をこする。速度を上げた車体は、太陽の光を跳ね返し、それがやっぱり、銀色の魚の腹のように柔らかに波打って……
ーーもしかして、熱中症の初期症状?
今日はずいぶん暑かった。急いで自販機で買ったソーダを一口含むと、
ーーしゅわしゅわしゅわ……
口の中の音が、耳元にも聞こえた気がした。
と、もう一度窓の外へと顔を向けた瞬間、夏実は言葉を失った。
青い。あたり一面、水の中。キラキラと光る青い世界が目の前にどこまでも広がっている。
一瞬にして、全てが青色に変わってしまった。
ーーえっ! どういうこと!?
思わず、不自然な格好で動きが止まる。風景は、先ほど同じ田舎の田んぼ道だ。けれど、全てが水の中のように青い。まるでプールに潜ったときのように、いくつもの太陽の光の筋のようなものも見える。
「あっ!」
今度は思わず声が出た。遠くの方に、確かに魚の群れのようなものが見えたのだ。
数十匹が集まって、青い世界を泳いでいる。尻尾の方を小刻みに振るわせ、電柱を避けるように二手に分かれて、また合流して進んでいく。
ーーなにあれっ? 絶対に生き物の動きだったよね……
いやいや、本当に熱が回ったのか、と今度はソーダを何口か飲んでみるけれど、
ーーしゅわしゅわ こぽこぽ ぶくぶく
体の中の水音は、揺れる青い世界とリンクして、かえって青がより鮮明になっていく。
ーーどうしよう、どうしよう。
焦る気持ちと、けれど、夏美でじわじわと何かが別のものが膨らんでいく。自分は夢を見ているのか? ストレスのせいなのか? だけども、どうつねったって手の甲は痛いし、差し当たっての体の異常もない。それよりも何よりも、目の前の光景はとてつもなく美しくて、すでに目が離せなくなっている……
青に沈んだ街に、いく筋も差し込む幻想的な太陽の光。時々、腹を見せるようにキラッキラッと光る正体不明のの群れ。それを今、夏実は、列車の中から見ているのだ。
「お魚! ね、お魚!」
幼い声にふと車内を見渡すと、斜め前に座っていた弟がうれしそうに窓の外を指差している。
ーーあの子達、これを見ていたんだ……!
水族館のポスターなんかじゃない。外で泳ぐ生き物のことを言っていたのだ。
ーーゴォォォォォォォ
水中に音が響く。何か、とても大きなものが近づいてきている。本能で体に緊張が走ったその瞬間、目の前を銀色の大きな魚がものすごいスピードで通り過ぎていった。銀色の鱗が光る。
ーーあっ!
それは、電車だった。大きな銀色の魚の中、人が座っているのが確かに見えたのだ。
ーー魚……やっぱり魚だったんだ!
先ほどホームで太陽の光で反射しながら走り出した電車が頭に浮かぶ。
ーーじゃあ、今私もお魚電車に乗っているの!?
すれ違ったばかりの大きな銀色の魚の中に、今まさに自分もいるのだと思うと、夏実は一層興奮した。信じられないけれど、どうしたって、目の前の光景は本物だ。
列車のスピードが落ちる。次の駅に到着するのだ。
電車のドアが空いたらどうなるのだろう? 外の青い世界が流れ込んでくるのだろうか。いいや、やっぱり私は幻想を見ているのかしら? また少し不安になってきたところで、電車は速ゆっくりとホームに入り、
ーーあれ?
思わずぎゅっとつぶった目を開けてみると、青い世界は消えていて、おじいさんが一人、乗り込んでくるだけだ。ごく普通に電車の扉が閉まり、また走り出す。風景は田舎町のまま。
ーーえ、え、うそうそ。ちょっと待ってよ。
だってまだもっと、あの青い世界に浸っていたい。あの美しい世界に。やだ、やだ、やだ。夏美は、急いでペットボトルを掴んでゴクゴクゴクッと一気に飲み干した。炭酸が苦しいけれど、止まらない。
ーーしゅわしゅわしゅわしゅわ、こぽこぽこぽこぽ……
揺れる泡、ささやく波音。
そして、目を開けると、銀色にキラキラと光る生き物たちが泳ぐ、青い世界が広がっていたーー
ーーやった、戻ってこれた!
もう心は、青い世界にすっかり魅了されていた。ドキドキ、胸が早鐘を打つけれど、それがすごく心地いい。
けれど、また列車のスピードが落ちていく。次の駅までもう少し。風景の流れが次第にゆっくりになる。
ーーどうしよう、また消えちゃったら。
心の中で、どうか、と念じる。電車が止まって、ドアがスライドすると……
夏実は目を見張った。電車は青い世界に取り囲まれたままだ。開いた扉のホームとの境目には水の壁ができている。まるでお風呂にはった水のようにたぷんたぷんと波打っているが、車内には流れ込んでこない。
ーーうわぁ……
一体どうなっているのだろう。思わず席を立って近づいた。そっと水の壁に手を伸ばすが、触れた感覚はない。ただ冷気のようにひんやりと冷たさを感じた。
目の前で青い世界が揺れている。波打ちながら、うねりながら。
ーーもしかして、これってあっち側にいけるんじゃ……
触れた感覚は水ではないから、息はできそうだ。電車の窓を隔てて見ているだけでもこんなに美しい世界。胸躍るようなこの感覚。青い世界に三六〇度浸ってみたら、それは一体どんな景色だろうか……
想像しただけで、夏実は口元が緩んだ。本当ならもしかすると、大人は行けない特別な世界なのかもしれない。だって、電車ではあの兄弟だけが見えているみたいだった。
そう思うと、足がわずかに動いた。
もう正常な判断はできなくなっていた。すっかり虜だ。あぁ、この水の壁の向こうは……
まさに、ドアの外へ足を踏み出そうとしたその時、ぐんっと服の裾を引っ張られた。振り返ると、向かいの席で窓の外を見ていた、男の子が立っている。
「行っちゃ、だめ」
ーージリリリリリリリリリ……
発車の合図がなり、ドアが閉まる。お魚電車は、また動き出した。
「ちょっと!」
母親が慌てて駆け寄ってくる。
「すみません! 少し目を離した隙に! 降りる駅だったんですよね?」
勢いよく頭を下げるその女性の後ろに隠れて、小さな男の子がそっとこっちを見上げている。夏美の頭は急にはっきりとしてきた。
窓の外では、大きな魚も、小さな魚も、悠々自由に泳ぎまわっている。時には、飲み込み、飲み込まれ、群れになったり、物陰に潜んでみたり……あのまま足を踏み出せば、青い世界に行けたかもしれない。でも、果たしてそこから帰ってこれただろうか……?
「いえ……」
震える手を抑えて、夏実は男の子に声をかけた。
「ありがとう……」
母親は怪訝な顔をしたが、男の子はコクリと頷いた。喉がカラカラに乾いていることに気がついて、カバンの中に手を入れたが、ソーダはもうなくなっていた。もっとも、残っていても、飲む勇気はなかったかもしれないが……
窓の外では、すれ違う電車が、また銀色の鱗を光らせていた。
***
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