前歯が教えたくれたこれからの生き方
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:今村真緒(ライティング・ゼミNEO)
突然、ゴム底の靴でも噛んだかのような弾力に驚いた。しかも同時に、柔らかくなったガムがニュッと歯の隙間を埋めるような感覚もやって来て、私には何が起こったのかさっぱり理解できなかった。
私が食べていたのは、ただのナスのはずだ。さては中まで火が通っていなかったのか?
でもそうだとしたら、こんな歯触りではないはずだ。もっと柔らかい食感のはずなのに、変に弾力があった。自分の違和感に大いに戸惑った私は、ナスを口に入れたまま数秒固まってしまった。
恐る恐る、口から茄子を出して見た。明らかに口の中に異変を感じる。
そっと舌の先で口内を確認すると、前歯のあたりがスカスカしている。しかも先端がギザギザだ。
え? 前歯が折れた? 嘘でしょう? ナスで歯が折れるはずがないじゃないの!
焦った私は一緒に夕飯を食べていた夫に向き直ると、『笑ゥせぇるすまん』の喪黒福造ばりに歯をむき出してみた。
「……前歯が、折れてるよ」
私を見て、夫は笑おうか笑うまいか迷っているように微妙な顔をした。だが、思いもよらない事態に戸惑っている妻に気を遣ったのだろう。見てはいけないものを見たかのように慌てて目を伏せた夫は、ナスを出した私の皿の中を見る。
「折れた歯、どこにいったんだろうね?」
そうだ。明日にでも歯医者さんに行ってくっつけてもらわなくちゃ。歯が折れたというショックと、まだ夕食の序盤だったのに、これじゃこの後上手く噛めなくて食事ができないんじゃないかという落胆が押し寄せる。ナスを裏返すと、小さな白い欠片を見つけた。拾い上げて、手のひらに乗せる。ああ、どうしてこんな姿になってしまったのか。
時刻は夜の9時を回っていた。遅めに帰ってきた夫を待ってからの夕食だったので、お腹が減っていた私が慌てて食べたのが悪かったのか。いろいろと理由を見つけたくなるが、とにかく明日できるだけ早く歯医者に行かなければならない。しかし、ここで明日診てもらえるかどうか不安になった。なにしろ、かかりつけの歯科医は、いつも患者さんがいっぱいで予約が取り辛いことを思い出したのだ。けれど私には他の歯医者に行くという選択肢は考えられなかった。
昔、親知らずを抜いたことがある。左右にある親知らずを一度に抜歯することになり、数時間診察台の上でまな板の鯉状態だったことがあった。長時間顎が外れそうなほど口を開け続けていたので、口の両端が切れてとても痛い思いをした。ずっと緊張していたため冷や汗をびっしょりかいた。しかも抜歯後は熱が出て顔が腫れあがり、頬辺りが黄疸のように変色してしばらく流動食みたいなものしか食べられなかったのだ。その経験から、私は正直歯科が怖い。それにあの歯を削る音を聞くと、お尻がゾワゾワして居ても立っても居られない気持ちにさせられる。
そんな私だったが、現在のかかりつけの先生は安心して治療をお任せできる貴重な人である。歯科恐怖症の私がちょっとでも不安になるような態度や仕草を見せず、とても丁寧な説明や治療をしてくれるのだ。しかも先生は友人の夫ということもあって、全幅の信頼を置いている。
「ごめん、遅くに。前歯が欠けたんだけど、明日先生の予約とれるかな?」
友人に電話で尋ねてみた。本当なら明日の朝一番で歯科医院に電話するのが筋だろうけれど、ここは友人のよしみで先生に確認してもらおうと思った。
「何で前歯が欠けたの? 固いものでも食べた?」
友人が心配そうに聞いてくれる。やっぱり、そう思いますよね。私も、どうしてこうなったか信じられない。
「……ナス、食べてたら折れちゃって」
「え? 何で、ナスで折れるん?」
いやー、私が聞きたいよ。理由が腑に落ちずに悶々としている私をよそに、電話の向こうで友人が先生と話している声がする。
「ナス食べてて、折れたんだって」
不思議そうな彼女の言葉に、私は急に恥ずかしくなった。せっかくなら、前歯を破壊したのが煎餅だったら良かった。それか、せめてお餅とか。もっと前歯がやられるに相応しい食材があったはずだ。ナスでやられるなんて、私の歯ってどんだけヤワなんだろう。
何とか時間を調整してもらい、次の日の午前中に歯科医院に向かった。朝ご飯を食べるとき、やっぱり前歯が無いことの弊害を思い知った。前歯で噛めないのって、とても不便だ。食べ物を口に入れたときに、一番初めにものを噛むのが前歯だ。スカスカな歯の間を、食材がヌルッと通り抜けていく。その違和感たるや、食べ物を味わうどころではなかった。いかに普段前歯のお世話になっていたかを痛感すると、欠けてギザギザになった歯を指で撫でた。
先生に、欠けた前歯を差し出した。単純に、欠けた部分を接着剤でくっつけるような治療をすれば元通りになるのではないかと素人考えで思っていた。だから、欠片の他の部分が欠けてしまわないように大切に保護して持ってきたのだ。けれど前歯を見たあと、先生は思いがけないことを言った。
「ああ、これは差し歯にしないとね」
差し歯? ということは、自分の歯ではなくなるということなのか? 比較的歯だけは丈夫だと思っていたのにと、「親にもぶたれたことないのに」という台詞と同じテンションで心の中でごちる。何だかショックだ。50歳を過ぎて体のあちこちにガタが出始めているけれど、こうやって現実を突きつけられるとやはり戸惑ってしまう。
今回欠けた前歯は、数年前に治療したことのある歯だった。すっかり忘れていたけれど、その時に神経を取っていたこともあって歯が脆くなっていたらしい。私のカルテを見ながら、先生がそう説明してくれた。詰め物もしていたから、実際残っていた歯の部分が少なく、よけいに欠けやすくなっていたようだった。
この日の治療では、差し歯が出来上がるまでの仮歯を作ることになった。前歯の重要性は朝食時に身に沁みたので、仮歯、ウェルカムである。食べることが大好きな私は、噛めないのが何とも切なかった。
ところが、ここで上半分ぐらいが残っている前歯を削らなくてはならなくなった。何でも差し歯のために本当に根元だけ残して土台にするらしい。せっかく残っている自前の歯を削らなくてはならないが、欠けた部分をくっつけるという方法では根本的な解決にはならないようだ。
「うがいをどうぞ」
診察台の横にある紙コップを取ろうとしたとき、鏡に私の姿が映った。未練が残るが、この半分の前歯も見納めだ。ニッと歯をむき出して笑ってみる。間の抜けた笑顔に、ちょっぴりしんみりする。舌で歯の形を探る。昨日からギザギザになった歯先とももうお別れだ。私の苦手な機械音が響くと、手のひらについ力が入って拳を握りしめる。私の様子を見ながら、先生が大丈夫かと声をかけた。目をつぶって極力怖さを追い出すように、楽しいことを考える。この治療が終わったら、帰りに美味しいスイーツを買おう。だから仮歯が入るまでは我慢、我慢。あと少しだから。
機械音が止み、あとは仮歯を入れるだけだと先生が席を立つと、助手の女性がまたうがいを勧めてくれた。しばらく口を開けていたから、口の中がカラカラだ。いや、それよりも何だか変な感じがするのは、口の中がいやにスースーすることだった。うがいをすると、明らかに前歯のあたりから勢いよく水が零れた。どれどれ、一体どのくらい削ったんだろう?
鏡に向かって歯をむき出した私は愕然とした。お歯黒をしたように、前歯が1本スッキリと跡形もなく無くなっていた。目を凝らすと、かろうじて根元の部分が見える。私の脳裏には、『天才バカボン』に出てくる歯がスカスカの「レレレのおじさん」がほうきを持って横切っていた。ああ、まさしく私はいつでも陽気なレレレのおじさんみたいだ。再度、鏡に向かって満面の笑みで笑ってみる。情けないような、おかしいような、何とも言えない気持ちになった。ちょうどその場面を助手の方に目撃されてしまったが、「いい笑顔ですね」と言ってくれたので、勢いに乗ってスマホで思いっきりの笑顔を自撮りしてみた。
仮歯を入れてもらい、何とかものが食べられるようになった。1週間後には差し歯に入れ替わる予定だ。仮歯は自前の歯と違って、ちょっと違和感がある。先生によると、差し歯になればちゃんとそのあたりも調整してもらえるらしい。慣れた頃にまた、この仮歯ともさよならしなければならないようだ。差し歯になったら、例えば焼き鳥を食べるときにも歯で串から引き剥がすのではなくて、お箸で一旦剥がしてから食べるようにとアドバイスをもらった。差し歯はしっかり付けてもらえるのだろうけれど、やはりそこは人工物だから用心しなくてはいけないのだ。
人生100年といわれる時代だけれど、半世紀持ちこたえてくれた前歯に感謝しなくてはならないだろう。残っている歯もこれから弱っていって入れ歯なんかになることもあるかもしれない。だけど、食べることは生きること。そのためには、あと半世紀ほどは噛めるように頑張ってもらわなくては。今回、老いに入っていくのはこういうことかと実感した。一つ一つ欠けたり、動きづらくなったりしていくものなのだ。そうなると一見老化とは切ないように思えるが、裏を返せばその分長くいろんな経験をしてきているとも言える。
娘に前歯のない写真を見せたら爆笑されたし、心配してくれた友人にも見せたら同情された。以前の私なら、恥ずかしくて見せられなかった部分をさらけ出すのに抵抗が少なくなっている。今回も、この写真はおいしいかも? なんて思ってしまった。おばちゃんの面の皮の厚さが板についてきたのか、何かあっても話のネタになっていいじゃんと笑い飛ばせる自分は嫌いじゃない。変化とともに、自分を機嫌良く飼い慣らせるようになれればいいと思う。ちょうど今は次のステップへの転換期なのかもしれない。だから今までのがさつで勢い任せだった自分から、もう少し落ち着いて過ごせと言う神様からの戒めをもらった気がしている。
≪終わり≫
***
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