メディアグランプリ

平日夕方4時半のコーヒー


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:菅原裕恵(ライティング・ゼミ10月コース)
 
 
「あ、」
夕方4時半、保温ポットの口から無情に滴る焦茶色の液体。
ポットのコーヒーが切れる。
仕事が続けられるのは、子供を保育園に迎えに行くまでのあと1時間半。
さて、もう一杯淹れるかどうか。空のカップを恨めしく眺める。
 
在宅で仕事をするようになって6年。
毎朝、コーヒーメーカーの容量いっぱいまで、たっぷりとコーヒーを淹れる。
気合を入れたい日はお気に入りの豆を挽く。中深煎りのコスタリカの豆。
そこそこな気分の時はスーパーで買ったコスパの良い豆。これはこれで悪くない。
 
コーヒーメーカーがお湯を吐き出し、ボコボコと音をたてるとともに、部屋中にコーヒーの香りが漂い、あきらめ悪く残った目の奥の眠気を拭ってくれる。
 
食器棚からやたらと増えてしまったマグカップの中から一つを選び、なみなみと注いでパソコンの前に着席。
子供が産まれてライフスタイルが変わっても、引っ越しても、海外に住んでもほとんど変わらない毎朝のルーティンである。
 
元はといえば、朝に弱いのをどうにかしようと思って始めた習慣だった。
目覚ましアラームは5分おきに最低5回は鳴らさないと起きられない。朝活と称して早朝からジョギングや筋トレをするなんて人がいるけれど、わたしなら計画だけして初日に布団から出られずに挫折する自信がある。
それくらい寝起きは悪いし、起きた直後も冬眠明けのカエルのようにぼんやりとしているので、何か寝ぼけたままでもできて、なおかつ布団から抜け出すモチベーションになることから始めようと思ったのだ。
 
パジャマのまま、のそのそとちょっと重量のある角張ったカリタのコーヒーミルを棚から出し、コーヒー豆を山盛り4匙。時間がある時はハンドミルで豆を挽くことにしている。
真鍮色のひんやりと冷たいハンドルを回転させると、ゴリっとした硬いものにぶつかった後、何かが弾ける感覚がしてハンドルが進む。
そのまま力を入れてゴリゴリゴリと豆を挽く。左手でしっかりとミルを抑え、右手を無心で回しているとじわりと体温が上がり、だんだんと目が覚めてくる。
 
そうだ、昨日読んでいた本はどこまで進んだっけ。今日は夫の帰りが遅くなるんだったかな。先週相談をくれたあの案件、その後どうなったんだろう。例の件、あの人に連絡しておかなきゃ。
弾ける豆の感触を感じながら、仕事も暮らしも関係なく雑多に頭に残っていたことをひっぱりだす。
不思議と、寝起きなのにパソコンに向かっている時よりも思い出せる。
しかも、ほどよくぼんやりしているのが良い塩梅に働くのか、いいアイデアが思い浮かんだり、踏ん切りがつかなかったことを手放す決心ができたりするのだ。
 
例えば「先週の会議で変なこと言っちゃったな」 とか、「お世話になった人からの気の進まないお誘い、断ってもいいかなあ」 など、小さなささくれのように心に残りつづけている、躊躇いや後悔みたいなもの。
ゴリゴリゴリと豆を挽いているうちに「まあ、気にしているのはわたしだけかも」「しかたない、気まずくてもちゃんとお断りしよう」と、軽やかに心が決まっていく。
ペーパーフィルターに移したコーヒー豆にお湯が注がれ、いい香りを漂わせながらドリップされきる頃には、ちゃんと大切なことだけが頭に残っている。
まるで頭の中に溜まっていた思考のかけらたちもドリップされているみたいだ。
 
コーヒーを啜りながら仕事をして、夕方。ふう、と一段落して、あともうちょっと飲みたいなというところで大抵ポットが空になる。
保育園のお迎えまでもうひとがんばりしたい。コーヒーを淹れながら一息つきたい気もするけれど、ゆっくりしていたらあっという間にタイムアップ。
 
夕方4時半はそんな葛藤が生まれる時間だ。
 
「もう良いかな」 と作り置きの麦茶に手を出すこともあるけれど、大抵はもう1杯分だけコーヒーを淹れる。
仕事が行き詰まっているときは特に、そうすることにしている。
ドリップしながらコーヒーが落ちるのを待つその時間が、頭を整理していることを知っているから。
 
同じ家の中で行き来する日々の暮らしと仕事。
「コーヒーを淹れる」という行為は単なる水分とカフェインの摂取のためではなく、いつしか「頭を整理して、エンジンをかけ直すためのスイッチ」になっているのだと思う。
立ち上る湯気、コーヒーミルが砕く豆の感触、ドリップマシンの立てるゴボゴボという音、フワッと広がる香り……五感にすべてに働きかけるスイッチだ。
 
夕方4時半のコーヒー切れはそんな自分の感覚に改めて気づかせてくれる。
 
 
 
 
***
 
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2022-11-23 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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