五月病を5時間で抜け出せたのは、最も苦手な仕事のおかげだった
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:田盛稚佳子(ライティング実践教室)
気づいたら七分袖の上着を着て、腰に巻いた短いエプロンがズレないようにギュッと紐を強く結んでいた。さあ、これから私は最も苦手とする「居酒屋での接客」にチャレンジするのだ。強く結んだのは気合いの証でもあった。
メンバーが集まらないうちに店長が話し始めた。夕方の開店時間が刻々と近づいている。
「いい? 時間がないから手短に説明するよ。料理はここから出るから、必ず元気よく返事をして素早く持って行くこと。瓶ビールは栓を開けて、冷えたグラスと一緒に。あ、そうそう、お通しも忘れないでね。何かあったら僕じゃなくて、他のスタッフに聞くこと。以上!」
おいおいおい、手短すぎるだろ? なんで何かあっても店長に聞けないんだよっ!
誰も言わないが、私以外に来たアルバイトの二人もそう言いたげな顔をしていた。
「よろしくお願いします!」
とお互いに挨拶を交わしている間に、厨房ではもう料理が出来上がっていた。
「お願いしまぁーす!」
「はーい!」元気よく、そして素早く。私たちは次々と料理を運び始めた。
ゴールデンウィーク初日は、予約だけでほぼ満席だった。
最近の居酒屋は、お冷やお子さま用フォークやスプーンに至るまで、すべてタブレットで注文できるのでメニューも覚える必要がない。
その代わりに注文がバンバン入ってくる。厨房とドリンク担当はてんてこまいだ。
「ドリンク、お願いしまぁす!」
呼ばれて行ってみると瓶ビールがあった。あちゃー、苦手なやつだ。
なんとか冷たいうちに持って行かなくては、と慌ててお盆に乗せて運ぼうとした瞬間、瓶ビールがお盆からズズズと滑り落ち、弧を描いて落ちていった。
ガッシャーーーン! コポコポコポコポ……。
床には虚しく飛行機雲のようにビールがこぼれ、瓶が転がっていた。
「ああ、やっぱ私には向いてないんだよー」と嘆いている暇などない。
「すみません!」謝りながら床を拭いていたら、バイト仲間がモップを持ってきてくれた。
拭き終わった頃、また瓶ビールのオーダーが入る。
今度こそは絶対こぼすもんか。慎重かつできるだけ早くお座敷に持っていく。
「はい、ビールお待たせしました! ごゆっくりどうぞー」
お客さんにマスク越しにとびきりの笑顔でお渡しする。
「おー、来た来た。ありがとさん。じゃあ、みんな乾杯するばい」
お客さんが楽しそうに乾杯する姿を見るなんて、一体いつぶりだろう。
その姿を見て、なんだか嬉しくなった。
実はこの数日前まで、私はぼんやりしていた。
あと数年で50歳の壁が見えてくるのに、ほぼ毎年「五月病」に翻弄されていたからである。
「誰とも会いたくない……」
週末になると、そう思いながら自宅でゴロゴロと過ごすことが増えた。
今の部署で3年目を迎えた。仕事にも慣れて、手を抜ける箇所もわかってきた。それでもやはり、異動で新しい社員が来ると、知らず知らずのうちに気を遣うものだ。
年上の社員に一から教えることの煩わしさ、自分の仕事が進まない苛立ち、それらが積もり積もって、時に爆発しそうになる。
「この仕事、本当に自分に合ってるのかな。以前やっていた総務とか採用の仕事のほうが合ってるんじゃないのかな」
そんなことを考えながら、ゴールデンウィークを迎える前にふと思った。
「今と全然違う仕事やりたい」
偶然にも以前入れておいたバイトアプリで、わりと近所にある居酒屋の求人が目に留まった。
「未経験者歓迎! 5時間だけのホールスタッフ」
コロナ禍で飲食業界のスタッフが不足していることは、ニュースや新聞を見て気になっていた。
飲食業界なんて経験ないけど、こんな私でもいいかな。
5日間の休みのうち、2日間なら入れるかな。猫のカリカリ代くらいにはなるよね。
そんな気持ちが湧いてきて、ポチッと応募していたのである。
「刺し盛り、お願いしまーす!」
厨房からの声にふと我に返る。普段、事務メインの私にとって5時間(休憩なし)の立ち仕事はさすがに堪える。
開始から3時間を過ぎた頃、店内はものすごい活気で暑く、オーダーが減るどころか絶えずやってくる。どの席に持っていくのかを間違えそうになるほどの忙しさだった。
それでも「お願いしまーす」の声を聞くと、不思議とやる気スイッチが入るのだ。
そして、しばらくして気づいた。バイト仲間の一体感が妙に心地よいことに。
今日初めて顔を合わせ、名前もお互い覚えていない。でも協力して仕事することがまったく苦にならないのである。
若手の男性は大ジョッキが乗ったお盆を「僕が運びますから大丈夫ですよ!」と代わってくれた。同年代の女性は「私も一緒にバッシング(片付け)しますね!」とお座敷にある大量のお皿を分担して持ってくれた。
今の会社はどうだろう。各々の仕事に精一杯で「手伝いましょうか」とか「いいよ。やっておくよ」なんてお互いに言葉をかけることはほとんどない。
そうか! まず私から少し周りに声をかけていけば、手伝ってほしい人がいるかもしれない。
一人で悶々と考えてしまうことで、コミュニケーション不足を生んでいたのだ。
そして5月が終わろうとする今、以前とは明らかに職場の雰囲気がいい方向に変わりつつあることをひしと感じている。私、今の仕事でいいんだ、と。
今後は会社でも居酒屋を利用することがあるだろう。そんな時は、店員さんに笑顔で「ありがとう!」と言って、グラスを受け取って乾杯したいと思っている。
それが飲食業界で働いている方々へのせめてもの労いであり、「五月病」を抜け出すきっかけを与えてくれたことへの感謝の気持ちの表れなのである。
***
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