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ナプキンを付けて完走したトライアスリートの痛すぎる話


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記事:前田三佳(ライティング実践教室)
 
 
「ボタボタボターッ」
血が滴り落ちる音を聞いたのは初めてだった。
あまりの出来事に私たちは言葉をなくした。
2004年9月、私は夫と佐渡市のある民宿に来ていた。
ついにやってしまった。
彼が人知れず悩みを抱えていたのは知っていた。
どうしてここまで来てしまったのか悔やんでももう遅い。
 
今となっては笑い話だが、あの日夫の持病である外痔核(通称いぼ痔)の上皮が破れついに出血したのだ。
あんなに大量の血を二人とも初めて見た。
夫はただ呆然と立ち尽くしている。
私は民宿の畳を汚すまいと必死でタオルで拭きまくった。
びろうな話で恐縮だが、夫のいぼ痔は血まめができる血栓性外痔核であり、痔核の上皮が破
れ出血後は痛みがあるが血栓は時間とともに吸収されていく。
出血はすぐに収まった。が彼は頭を抱えていた。
「俺、どうしよう」
「どうしようって?」
「明日の大会だよ」
夫はその年、佐渡国際トライアスロン大会のロングディスタンスAタイプに2回目のエントリーをしており民宿に前泊していたのだ。
1998年からトライアスロンを始め、毎年佐渡大会に参加するのを楽しみにしていた。
Aタイプはスイム3.8㎞バイク190㎞ラン42.2㎞を休み無しに走破する過酷なレースだ。佐渡大会では、海で泳いだあと起伏に富んだ道をロードバイクで島一周してから、フルマラソンをする。
制限時間は15時間半。朝6時にスタートし21時半までにゴールしなければならない。
運動音痴代表のような私にはこの過酷なレースのどこが楽しいのかさっぱりわからない。
さらには彼はマラソンよりトライアスロンの方が好きだという。
ただ長距離を走るより、泳いだあとバイクを漕ぎ、走る、その変化が楽しいらしい。
いずれにせよその世界は私にとって異次元過ぎる。たまに応援に行っても、お通夜の席に
ジャージで参列してしまったような居心地の悪さを感じていた。
 
2004年夏、夫はいぼ痔に悩んでおり肛門科で手術を勧められていた。
もちろん主治医は激しい運動を控えるよう助言した。
それなのに彼は長年の趣味であるトライアスロンを諦められなかった。
前述したようにレースでは190㎞、極端にサドルが細いロードバイクで走らなければいけない。お尻にとっても極めて過酷な状況であることは間違いない。
それでも参加するという夫はド阿呆以外の何者でもない。
だが夫は一度決めたらとことん貫く男だ。
たとえそれが間違った道かもと途中で気づいても、後には引けないめんどくさい男なのだ。
そんな性格がよくわかっているから私は強く止めはしなかった。
ただこの時ばかりはさすがに心配で佐渡まで応援に行った。
 
大会の約1ヶ月前から夫は微量の出血に備えて、生理用ナプキンを身につけながら練習に励んでいた。
そして大会前夜の大量出血。
血は止まったが、さすがに夫の決心は揺らいだ。
「オレ、辞めようかな」
「何言ってんの? ここまで来たんじゃない! やってダメならリタイアすればいいじゃない」
私は自分でも思いがけない言葉を発していた。
今でもなぜそんな言葉で発破をかけてしまったのか謎だが、こんな時強いのが女なのかもしれない。
土壇場になるとなぜかクールダウンして物事を俯瞰できる。
これまでお尻の痛みにも耐えながら積んできた練習の成果を今ここで断念したら、きっとあとで本人が悔やむに違いない。
途中リタイアしたなら納得もいくというものだ。完走を目指さなくてもいいから参加してみたらと私は彼を説得した。
 
翌朝、夫の状況を私は仲間の女性たちに伝えた。
皆、自らがトライアスリートでありながら産後や体調不良を理由に応援にまわっていた、
夫とは同じ趣味をもつ仲間である。
「やだ、前田さん大変じゃない」同情と半笑いの顔でみな協力を約束してくれた。
長いレースの要所要所で彼女たちが、ナプキンをポケットに忍ばせ夫のお尻を目視確認する。
そこでウエアが赤く滲んでいたら、ナプキンをそっと差し出す作戦だ。
スイム、バイクと夫は驚くほど順調にレースを進めた。
最後のマラソンの何カ所かある給水地点では、待ち構えた仲間たちが
「どう?」
「お尻、OK!」とスパイ大作戦さながらの連携リレーで夫を見守ってくれた。
幸い大きな出血もなく、すっかり日も落ちた夜8時過ぎ疲れた顔に満面の笑みで夫が帰ってきた。トータル236㎞を14時間19分で完走したのだ。
まさか完走するとは思わなかった。
大会史上ナプキンを付けて完走した男は他にいまい。
数日後、夫は主治医の元「外痔核抜根術(ガイジカクバッコンジュツ)」を受け完治した。
むろんトライアスロンを完走したことなどおくびにも出さず、神妙にお尻を出したらしい。
 
夫は今まで海外を含め各地のトライアスロンに25回以上出場し22回完走しているが、
レース中いつも「ありがとう」の気持ちでいっぱいになるという。
大会主催者、快くボランティアとして協力してくれる地元の皆さん、アスリート仲間、
趣味を理解し送り出してくれる職場の上司、サポートしてくれる同僚、健康な身体を授けてくれた両親、そして私たち家族に。
誰ひとり欠けても22回の完走は無く、そう考えると夫ひとりが走っているわけではないとも言える。
 
そんな彼もまもなく69歳になる。先日何を思ったか断捨離を始め、大会で完走した者だけが手にできる記念ポロシャツを捨てると言い出した。
いつも明るい夫だが最近少し体調を崩し、元気がない。
「なんで捨てちゃうの? いったい何枚あるの?」
これまであまり夫の趣味に関心を示してこなかった私だが、22枚の完走ポロシャツは文字通り汗と涙の成果物だと思うとさすがに感慨深かった。
まったく理解に苦しむ趣味ではあるが、生半可な体力と精神力でこの結果は得られないはずだ。
「捨てることないよ! いっそ額装したらどう?」
私の提案に夫は気を取り直した。
 
人生はよくマラソンに例えられるが、結婚生活はまるでトライアスロンのようだと思う。
私は25歳の時育った家を離れ「家庭」という海に飛び込み、がむしゃらに子育てをした。
夫も社会の風に向かってひたすらペダルを漕ぎ続けた。
あっけなく私の両親と義母を見送った後、しばらくして義父が認知症となり介護に家族で力を尽くした。やがて長女が嫁ぎ次女も独立して、今私たちは海に沈む夕日を眺めながら
ゆるやかにゴールを目指す。
たまたま縁があって夫と長いレースの途中にいるが、私は最後まで伴走者であり続けたい。
 
余談だが、夫は「ガイジカクバッコンジュツ」の時に下りた保険金で私に感謝のプレゼントをしてくれた。
私の胸元で小さなダイヤのペンダントが揺れる時、今もお尻がうずくらしい。
 
 
 
 
***
 
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2023-11-22 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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