父からの宿題を20年後に解いた私
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記事:前田三佳(ライティング実践教室)
「お父様にはいつもお世話になっております」
夕暮れの病院の待合室。
そう言って優しく微笑んだ女性を見て、私は小さく声をあげた。
20年前のあの光景が蘇る。
昨日、「生きる LIVING」という映画を観た。
黒澤明の名作『生きる』(1952年)を第二次世界大戦後のイギリスに置き換えて
ノーベル賞作家カズオ・イシグロが脚本、ビル・ナイが主演した作品だ。
1953年のロンドン。公務員ウィリアムズは仕事一筋のお堅い英国紳士である。
20年前に妻を亡くし空虚に毎日を送っていた彼は、医師から余命半年であることを告げられる。自分の人生を見つめ直すことから彼の本当の人生が始まる、という内容だ。
主人公ウィリアムズが、私の亡き父と重なってみえた。
終戦後3年もの間シベリアに捕虜として抑留されていた父。
悲惨な体験をずっと胸に秘めたまま、71歳で亡くなるまで仕事に生きた人だった。
ある旅行会社の創業期からの社員で、転勤と単身赴任を繰り返し、やっと私たち家族とともに暮らすことができたのは50を過ぎた頃だ。
副業、転職も当たり前の現代と違い、まさしく「会社に骨を埋める」べく企業戦士となって働いてきた父だが、出世コースには乗り切れなかった。
不器用で生真面目な性格が邪魔をしていたのだと思う。
それでも毎日、英国紳士のように背広姿に革靴、革の鞄にソフト帽で通勤する父。
父なりのダンディズムを貫いていたのだろう。
それは定年後、小さな出版社に勤めた時も変わらなかった。
母が亡くなった後も、父はその孤独を埋めるように仕事に励んでいた。
働くことが父にとっての「生きる」ことであったのだ。
そんな父が恋をした。
母が亡くなり2年目、銀座のデパートのネクタイ売り場の女性に一目惚れしたという。
妹からその情報を聞き、私は少し嫌な気持ちになった。
母のことはもう忘れてしまったのか?
葬儀の日、まるで子どものように私の胸でおいおい泣いた父が思い出された。
「あんまりだよねえ。きっとやな女よ」と憤慨する妹。
会ってもいないその女性は私たち姉妹の中で、邪悪な存在となった。
母はずっと父に尽くしてきたのに、他の女性とお付き合いする父を許せない自分がいた。
今にしてみれば、父には父の人生があるのに子供じみた考えだった。
グレイヘアをオールバックに撫でつけ仕立てのよいスーツを着た父は、齢を重ねた分渋みが増し、娘の目にも魅力的に映った。
そんな父が銀座のデパートにふらりと立ち寄り、きっとタイプの女性に出逢ってしまったのだろう。相手の女性も独り身だった。
父がお茶に誘いふたりは交際を始めた。
しかしそんな父に癌が見つかった。
医師から私たちが告げられた病名は「胆管細胞がん」
検査で発見された時はすでに手遅れであった。
20年前は病名を本人に告げないことが一般的だった。
私たち家族も父には病名をひた隠し、せめて何か父が喜ぶことをしようと思った。
「私、お父さんの恋応援したくなった」
「私も同じこと考えてた」
私と妹は行動を開始した。
妹は父に内緒で、その女性が働くデパートを訪ねた。
休憩時間に妹は父の病気について女性に告げた。そして父に逢ってほしいと。
その晩、妹からの電話が待ち遠しかった。
「どうだった?」
「驚いた。お母さんに似てるの」
それを聞いて涙があふれた。
父は母のことを忘れてはいなかったのだ。
聞けば、その女性は夫と離婚後独りで息子を育て、この春から大学生になるという。
父とは数回お茶を飲んだだけで、まさかこんな自分に好意を寄せてくれていたとは思わなかったと。
70を超えた父のプラトニックな恋だった。
後日妹が父に、その女性に会ったことを伝えると
「いいひとだろう。退院したらプロポーズしようと思ってるんだ」と答えたそうだ。
父は新しい恋に心を躍らせていた。
母に似たそのひとと、この先暮らしていきたいと願っていたのだ。
また、退院後は社会人学生として大学で園芸を学びたいと資料を取り寄せていた。
父は自分の最期を本当に知らなかったのか、ひた隠す家族を思って知らないふりをしていたのか、ずっと謎だったが、昨日の映画「生きる LIVING」でそれが解けた。
映画の主人公は余命半年を宣言され、社会の歯車でしかなかった日々を悔やむ。
仕事を休み今まで経験してこなかった自由を満喫するが、なぜか楽しめない。
そんな時、職場の部下であった若い女子社員に出会う。
若く太陽のように眩しい彼女の言動を見るうちに、ウィリアムズの日々が変わってゆくのだ。それは恋ではないが、残りわずかな人生を「生ききる」力を彼女をとおして手にするのだ。
東京女子医大病院。20年前の待合室で私が逢ったその女性は、確かに母に似ていた。
それだけで私は胸がいっぱいになった。
「お父様は私にはもったいない方です。でも少しの間、私も夢を見させて頂きました」
そう言ってそのひとは私の手を握ってくれた。
最後に父に夢をくださったその方に私は何度も頭をさげた。
ほどなくして父は白い布に包まれた小さな箱に入った。
最後の恋が散ったことを父は知っていたのか。
はらはらと桜に包まれて歩く菩提寺からの小径は、まるで父の花道のようだった。
今わかった。
父は最期を知っていながらも、生ききろうとしたのだ。
シベリア抑留できっと仲間の死を嫌というほど目にしながら生き抜いた男だ。
寡黙だが強靱な魂は、死期を悟ってもまだ人生を楽しもうとしていたに違いない。
恋をして新しい家庭を持ち、大学で学ぶ。そんな夢を最後にみていたのかもしれない。
シベリアから生還後は、いち会社員として死の間際まで働き続けた、しごく平凡な父の人生。
そこには誇らしい名誉も世間からの賞賛もないが、最後まで生きることに誠実だった。
そんな父を私は誇りに思う。
***
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