メディアグランプリ

一瞬のような幸せを、一生抱えて生きていく


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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:下村未來(ライティング・ゼミ12月コース)
 
 
「あーもう、今日は何がなんでもサーモンの刺身を食べてやる!」
 
行き場のない気持ちがどうしようもなく膨らんだ時、私は心の中でこう宣言する。それは例えば、こんな不幸つづきな日のことだ。
 
パリーーーン
 
面倒な家事を少しでも楽しもうと、鼻歌なんか歌いながら洗い物をしていたのが良くなかったのかもしれない。去年の年末に陶芸体験で家族と手作りした茶碗が、無惨な姿になって床に転がっている。4000円かけて作った大事なお皿なのに。心の中で涙しながら真っ二つに割れた残骸を片付けていると、今度は視界に黒い何かが映り込んだ。
 
「ヒッ」
 
虫だ。そら豆くらいのサイズの虫が、平然と壁にへばりついてやがる。尻もちをついたまま、サーッと全身の血の気が引いていく。人間はあまりに驚くと、急にゴミ箱の匂いを嗅がせられたハムスターのようにフリーズしてしまうらしい。
 
「えっと、どうしよう。どうにかしよう。どうにかって、どうする?」
 
「どうにか」するしかない。この家には私しかいないのだから。決意を固め、虫の動きを気にしながらティッシュ10枚をダッシュで取りに行き、瞬時に窓を開け、もう一度虫の前にスタンバイする。ヤツは、依然として白い壁にしがみついている。顔を皺くちゃにしながらティッシュで奴を鷲掴みにし、窓から逃がした後、一気に肩の力が抜けてしまった。まるでホラー映画を1本分見た後のような疲労感だ。
 
「ゴンッ」
 
キッチンへ戻っている途中、右足の小指を本棚の角にぶつけて鈍い音が響く。「うう……」とうずくまり、右足の小指を冷たい手で包み込む。怒りと痛みがごちゃ混ぜになった私は「今日こそはおいしいものを買いに行こう」と心に誓った。
 
私には「気分が沈んでいる日は、とびきりおいしいものを食べる」というマイルールがある。これは、良いことも悪いことも自分自身で乗り越えるための生きる術である。そして、私がこの世で一番好きな食べ物がサーモンだ。今日はまさに、このルールが実行されるべき日に違いない。
 
まずは、中くらいの品質で価格が安めのスーパーへ。むしゃくしゃした気持ちを隠せないまま、一直線に鮮魚コーナーに向かう。しかし、残っていたのは「いやあ、僕ら売れ残っちゃったんです」と言わんばかりに20%オフのシールが貼られた中落ちマグロだけだった。
 
「こんな日に、よりにもよって……」
 
別のスーパーまでは、近い場所でもここから徒歩15分ほどかかる。もうすっかり辺りは暗くなってしまったが、このやるせない感情は、大好物のサーモン以外に解決できるものではなさそうだ。
 
そうして二番目に行きつけのスーパーへと向かった。少し値段は張るものの、質の良い商品が多いので、きっとおいしいサーモンが手に入るだろう。またもや、野菜コーナーや精肉コーナーには目もくれず、人混みをすり抜けて奥の方にある鮮魚コーナーへ。
 
「よし! こっちまだ結構残ってる!」
 
手に取ってみると、なんだか艶のある5切れのサーモンが、お上品に横たわっている。しかし、値段を見て驚愕した。たった5切れなのに、637円もするようだ。月の食費を2万円以内におさめることを目標にしている私にとって、外食でもないのにワンコインを超える額を払うことなんて、そうそうない。しかし、サーモンは晴れの日の水面のようにキラキラと輝いて、私の視線を捉えてくる。
 
「仕方ない。今日だけは良しとしよう」
 
私の負けだ。あまりに魅力的な輝きに生唾を飲み込みながら、宝物のようにサーモンを慎重にカゴに入れる。エコバックに入ったサーモンを視界の隅っこで気にしながら、家路を急いだ。
 
「少しお高い九州醤油がまだ残っていたはず。あれを使おう!」「そうだ、せっかくならドラマの続きを見ながら食べよう」と、妄想が膨らんでいく。
 
家に着き、靴を脱ぎ捨て、小走りで荷物を下ろす。そそくさと手を洗い、冷やご飯を温める。せっかくなので、サーモンたちはお皿に並べてあげよう。そうだ、九州醤油とドラマの準備も忘れずに。ああ、なんて幸せなひとときなんだろう。
 
「は~、生きてて良かった! いただきます!」
 
壁に向かって満面の笑みで手を合わせる。一切れ目のサーモンを九州醤油に漬けて、ドキドキしながら口元へと運ぶ。
 
「っう~、うまい!」
 
サーモンのさっぱりとしながらも脂の乗った旨味と、九州の甘酸っぱい醤油との素晴らしいコンビネーションに涙が出そうだ。柔らかな肉感と特有の風味が、口の中で弾け飛んでいる。白ごはんとの相性も最高だ。
 
こんなにおいしいものが世の中あるなんて。命に感謝しかない。たった5切れしかないのに、2切れ目、3切れ目と口に運ぶ手が止まらない。口に運ぶたび、無意識に「うまい、うまい」と声に出てしまう。そしてあっという間に最後の一切れだ。できるだけゆっくりと噛み締めるが、当然それは一瞬で溶けてなくなってしまう。
 
すっかり寂しくなった皿の上を見つめながら、唇を噛み締める。せっかくの高級サーモンを、私はたった数分で平らげてしまった。
 
「一瞬だったな」
 
幸せな時間は一瞬で過ぎ去ってしまった。大事な5切れを、もっと味わって食べるべきだったのに。
 
私はその瞬間、人生の縮図を見たような気がした。幸せな時間って、私がこれから生きる一生涯の何%くらいなんだろう。もしかして、天井を突き抜けるほどの喜びや達成感が得られる時間は、一生のうちの1%にも満たないのではないか。ようやくありつけたサーモンも、たった3分で食べ終えてしまうのだから。
 
そんなことを考えながら空っぽになったお皿を片付ける。少しくつろごうとスマートフォンを触っていると、友人と行った吉祥寺のカフェや、20年ぶりに訪れたテーマパークで撮った写真、熱海旅行に行った時の海辺の写真が出てきた。
 
「うわ〜、懐かしいな」
 
こうして振り返ると、全てほんの一瞬の出来事のように思える。しかし、そのどれもが私の心をじんわりあたたかくさせるような思い出だ。たとえ幸せな時間は一生のうちの1%にも満たないとしても、私はこの瞬間を味わうために生きている。1分の幸せでも、1秒の幸せでも、後から何度も思い出して何度でも幸せな気分になれる。
 
そう考えると、さっき私がたった3分で平らげてしまったサーモンだって、私に生きる意味を与えてくれる一つの要素なのではないか。
 
確かに、ワンコインほどで買えるサーモンが与えるのは、たった3分の幸せかもしれない。しかし、その3分に私は生かされているのだ。
 
「ご馳走様でした」
 
私はすっかり丸くなったお腹をさすりながら、胃袋にある5切れのサーモンに思いを馳せ、感謝の気持ちを込めた。
 
 
 
 
***
 
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2024-02-21 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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