夫のいびきが教えてくれたこと
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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:前田三佳(ライティング実践教室)
仕事から帰ると夫が見慣れぬ装置をいじっていた。
「何それ?」
「今夜からこれを付けて寝る」
夫は先日の検査の結果、重度の「睡眠時無呼吸症」と診断され治療が必要だという。
これから改善するまで毎晩この「CPAP(シーパップ)」という装置を鼻に取り付けて寝ないとならないらしい。
新しもの好きな夫はまるで新しいオモチャでも与えられたように喜々として装置をいじっていたが、9時にはこれをつけて寝てしまった。
(おいおい……)
9時だなんて大人の時間はこれからだよ。
いつもなら「今日は何を観る?」とNetflixやAmazonプライムで面白そうなコンテンツを探るところなのに……。
私はひとりリビングに取り残された。
確かに夫のいびきが時々止まることは知っていたが、重度だったとは思わなかった。
もう何年も前から夫婦別寝のスタイルを取っていたから気付けなかったのだ。
何度も夫から「また一緒の寝室で」と所望されていたが、かたくなに拒否していたオノレの冷たさに頬を平手打ちされた気がした。
妻として一番に気づくべきなのになんて間抜けな女なんだ、私は。
医師から渡された説明書には「睡眠時無呼吸とは、寝ている時に何回も呼吸がとまり大きないびきを繰り返す病気です」と書いてある。
私はさっそく覚えたてのChatGPTでそのリスクついて尋ねてみた。
因みにChatGPTは人工知能を使って自然な対話を行うことができるチャットツールで
こちらの質問に即座に答えてくれるAIだ。
質問すると秒で答えが出た。
高血圧、心臓病、脳卒中、糖尿病、肥満……といったリスクが並ぶ。
ふんふん。もうすでに当てはまっている疾患もある。
そして最後に「重度の場合、突然死や心筋梗塞、脳卒中のリスクが増すこともあります」という言葉で締めくくった。
昨日「京都の10月の紅葉はどんな感じ?」と聞いた時とまったく同じスピードとテンションで、このChatGPT君は顔色ひとつ変えずに恐ろしい答えを私に告げたのだ。
(嘘でしょう?)
夫は高血圧症ではあるが、69歳の割にトライアスロンを趣味にするほどで同年代の男性よりずっと元気なほうだと思う。
しかしChatGPT君が突然死のリスクを冷静に告げた瞬間、私の中の軽い気持ちが消え、現実に向き合わざるを得なかった。
(心筋梗塞、脳卒中そして突然死……)
この言葉が頭の中をぐるぐる回る。
(どうしよう……)
早々にベッドに入った夫は鼻に透明の鼻の形をしたマスクを付けて眠っている。
CPAP(シーパップ)というこの装置をつけて寝ることで、呼吸が安定し、睡眠の質が向上する仕組みだ。
けれど装置をつけて眠る夫の姿は、まるで未来の何かを予感させるようで、私の胸を締めつけた。
脳天気に毎日を楽しく生きてきた私に「いつかはこんな日が来るのだよ」と神様は少しだけ未来のビジョンを見せ、喝を入れたのだろうか。
夫がキライなワケじゃない。結婚40年だがむしろ夫婦仲はいいほうだ。
だが躰もイビキも大きい夫と共に寝ることが、歳を重ねるごとに苦痛になった。
そして10年ほど前に私は「別寝」を提案した。
試してみたら、なんと快適に朝までぐっすり眠れることか。
ベッドの中で手足を伸ばして眠れる。そしていつまで本を読んでいてもスマホを見ていても怒られることもない。
独り寝サイコー!!と思った。
わが夫は一見人並み外れて元気印。
だがその実、歳をとるにつれ様々な病気と友だちになってきた彼に私はもっと注意を払うべきだったのだ。
しかしこうも考えた。
夫とずっと同じベッドで窮屈に寝ていたとしても気づけたのか。それは難しい。
私の名前はミカであるが、常に同じベッドに寝起きし夫の健康をきめ細かく気遣う健気な妻を仮に「ミカヨ」としよう。
ミカヨは言う。
「あなた、寝ている時に時々呼吸が止まっている気がするの。病院で検査してきて」
夫はいつもの口癖で答えるだろう。
「バカ言ってんじゃないよ。気のせいだよ。心配しすぎ!」
そうしてミカヨは来る日も来る日も夫の時々止まる寝息を聞いて、心配で自らが不眠症に陥るのだった……。
いや、無理。やっぱり私はミカヨにはなれない。
夫の健康は大事だが私自身の健康もやっぱり大事。
それに歳をとって少し気弱になってきた今だからこそ、夫は聞く耳を持って医者にかかり大仰な装置をつけて眠るのだ。
妻として気づくべきだったといっとき反省もしたが、これはこれで仕方なかったと今は思う。
一番身近で相手の異変にいち早く気づくのはパートナーであることが多いとは言え、夫婦といえども自分の健康はやはり自分で守るべきなのだ。
逆の立場でもそれは言える。
夫には私の異変に気づいてほしいが、気づけなくてもそれは責められない。
「あ~よく眠れた」
翌朝、夫は晴れやかな顔でそう言った。
これまで無呼吸症のせいで十分な睡眠が取れてなかったのだが、器具を付けたことで熟睡できたのだ。
夫はガーミンというスマートウォッチをいつも腕に付けているが、ここに表示された睡眠のスコアはすこぶる良かった。
このままこの調子で治療を続けていけば、きっと心配するような急変は起こらないだろう。
ひとまずは安心だ。
69歳と66歳の私たち夫婦。
スマートウォッチを身につけ、日々配信されるコンテンツを楽しみ、AIとチャットする。
5年前に、60代の私たちにはまるで無縁だったツールを普通に使っている現在(いま)を想像できただろうか?
5年後10年後にはもっと想像もできない面白い未来が待っているに違いない。
鼻に大きなマスクをつけて寝たことを懐かしい笑い話にできる日もきっと来るだろう。
そこには夫がいなくちゃ話にならない。
「散歩行くか」
私たちのお決まりの散歩コースは目と鼻の先の海岸だ。
晩夏の風が心地よい海辺をふたりで歩く。
思わず私は夫の手を取った。
ニヤける夫。
「介護だよ、カ・イ・ゴ!」
照れ隠しに言った言葉は風にかき消されて、彼が私の手を強く握った。
大きな手の温かさが伝わってくる。
その温もりの確かさをいつまでも感じていたい私がいた。
***
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