わたしは空なんだ
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:井上あやの(2026年4月開講・京都/通信・2週間集中コース)
2021年の8月初め、私は暗くて深くて底の見えない穴に、どんどん落ちて行っているみたいだった。当時、会社で全員が関わる大きなプロジェクトの実務責任者だった。プロジェクトは計画通り進んでいたけれど、予期しないトラブルが起こったりしていた。お客さまからも社内からも、問い合わせが続いていた。私は
「なんで事前にこのトラブルを防げなかったんだろう」
「同僚たちが対応に追われて残業続きなのは、私のせいだ」
と、自分を責め続けてかなり精神的に参っていた。
それでも時間通りに朝起きて、時間になったら仕事をして、一日一日を過ごしていた。でも、何をしていても気持ちがふさぎ込んでいて、体が重だるかった。このままだと深い穴に落ち続けて、そこから出てこられなくなる予感がした。私の中で
「このまま落ち続けていいの? ここで這い上がらないと、出てこられなくなるよ。何とか這い上がらないと!」
と、ずっと声がしていた。
このままだと私やばいな、とはっきり感じたきっかけがあった。全社員に向けてプレゼンテーションをすることになっていた大事な会議の予定を、完全に忘れたのだ。私は、普段予定を忘れたり遅刻したりすることは、まずない。なのに、その会議のことが頭の中から完全に抜け落ちていた。普通ならあり得ないことが起きた。自分の中で、今まで動いていた箇所のネジが外れていっているのが分かった。
「来週の盆休みの間に、何とかして這い上がろう。そうしないと、気持ちが落ち込み続けて、このまま仕事をすることもできなくなるかもしれない」
と、自分に言い聞かせた。
2か月前の6月に、前から興味があったマインドフルネスの講座を受けた。マインドフルネスとは「今、この瞬間に心(マインド)が満ちている(フル)状態(ネス)」と定義される。講座中に講師が、チャディー・メン・タンが書いた『サーチ・インサイド・ユアセルフ』は、マインドフルネスの理解を深めるのに良いと薦めていた。私は、その本に現状を変えるヒントがあるかもしれないと直感で思い、盆休み中に読むことにした。
本の中で、思考や感情に飲み込まれない考え方として、空と雲のたとえが紹介されていた。怒りや不安の感情は、空に浮かぶ雲のようなものだという。ずっとそこにあるものではなく、雲は一時的に現れては消えていく。そういう一節だった。
それを読んだ瞬間、まるで暗くて深い穴の奥底からザーッとすごいスピードで引き上げられたような衝撃を受けた。そして、明るい光に包まれて何もない広い場所に、静かに立っているみたいだった。
「そうなんだ! 今、プロジェクトの対応にみんなが追われているのは自分のせいだ、と自分を責めて苦しい思いでいる。その苦しい気持ちも、雲のようにやがては流れていくんだ」
「私はいつも、曇りのない青くて限りなく広がる空なんだ」
真っ暗だった目の前が、一瞬のうちにパーッと明るく開けた瞬間だった。後にも先にも、本を読んであれほどの衝撃を受けたことはない。
盆休みが明けて、私はすっかり落ち着いた状態になっていた。プロジェクトの予期しないトラブルは続いていたけれど、状況を少しでも良くするために淡々と対応した。自分を責める感情は雲で、その雲もそのうち空から流れていく。わたしと感情は、別のものである。そのとらえ方が、私の中にしっかり根付いていた。
5年経った今でも、空と雲のたとえはずっと心の真ん中にある。人間だから、もちろんイラっとしたり、悲しい気持ちになったりすることもある。でもそういう感情を客観的に見つめて、すぐに心が落ち着くのが習慣になっている。そのおかげもあってか、
「あやのさんって、怒ることあるんですか?」
「話していると、心が落ち着きます」
と、よく言われる。
『サーチ・インサイド・ユアセルフ』では、怒りや不安というネガティブな感情を雲にたとえていた。では、うれしいとか幸せというポジティブな気持ちはどうなんだろう、と考えたことがある。ポジティブな感情も、ネガティブな感情と同じように雲だと思う。そして、うれしいとか幸せという気持ちもいずれは流れて消えていく。だからこそ、うれしい気持ちが空に浮かんでいる時は、その瞬間を大事に味わおう。いつもそう心がけている。
今年1月に、とあるパーティーで50人ぐらいの前で、空と雲のたとえについて話をする機会があった。わたしと感情は別のものだという見方のおかげで、感情に飲み込まれることがすごく減った経験を交えながら話した。
「心に刺さりました」
「本当にいい話をありがとうございます」
と、たくさんの人から感想をもらった。5年前の夏に、暗くて深い穴の底に沈みかけていた私を救ってくれたことを、今度は誰かに話して喜んでもらえた。心の底からうれしくて、帰りの電車で思い返していたら涙が出た。
空には毎日、いろいろな雲が浮かんでいる。真っ白な雲の日もあれば、雨を降らせる灰色の雲の日もある。でも空そのものは、ずっと変わらずそこにある。今でも空を見上げるたびに、「わたしは空なんだ」と静かに思い出す。
<終わり>
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