メディアグランプリ

背骨が伸びる


 

 

 

 

*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

吉田倫子(ライティングゼミ・2026年4月京都集中コース)

あれは十五年前のことだった。突然、背中に激痛が走った。

その頃の私は、自転車でちょっとした坂を上るだけで心臓がバコバコした。途中で降りて押して歩くこともあるほどで、風邪もひきやすく、花粉症にも悩まされていた。

運動不足の自覚はあった。学校卒業以来、ほとんど運動をしていない。きっとそのせいではないか。テニスをお遊び程度にやったこともあったが、小さなボールを追うのは苦手だった。私は自分でこつこつ続けられそうなヨガ教室へ向かった。

いくつか体験に行った末、新しくできたばかりのホットヨガ教室へ通うことにした。高温多湿の部屋で、延々とポーズを繰り返す。かなり若い男性でも途中でへばるような内容。最初の頃の私は、できない以前に暑さで倒れ込み、途中離脱ばかりしていた。高度なポーズだから、できないのが当たり前だった。けれども、周りを見れば軽々とこなす人もいる。それでもなぜか、やめようとは思わなかった。なぜ自分にはできないのか、その理由が知りたかったのかもしれない。そしてもう一つ、ここで逃げたら駄目な気がした。

当時は時間もあり、一日おきくらいの勢いで通っていた。気づけば、そのペースは二年近く続いていたと思う。

もちろん今でも、ポーズがきれいにできるわけではない。
けれど、いつの間にか暑さには慣れ、きついときのやり過ごし方も覚えた。体を支える要の腹筋がどこにあるかも感覚でつかめてきた。長年悩まされていた花粉症は消え、風邪もほとんどひかなくなった。

ところが最近、右足に違和感が出るようになった。きっと年齢のせいもあるのだと思う。今までみたいに勢いで動くと、さすがに危ない、と自分でもわかった。私はふっと、「もう、やーめた」と思ったのである。
かっこよく見せようとするのも、
できるふりをするのも、
先生のお手本に近づこうとするのも、
とにかく無理をせず、動くところだけ動かそう。その日の自分の状態を知るだけでいい。

すると、不思議なことが起きた。

背骨の微細な動きが、前よりわかる。
以前より身体が安定して動く実感があった。身体の軸が通るような感覚もあった。

その時、私はようやく気づいた。私はずっと、「うまくやろう」としていたのだ。ポーズそのものではなく、「ちゃんとできている自分」を作ろうとしていた。

だから必要以上に力んでいた。本当の自分が見えていなかった。本来動かすべきところが動いていなかった。

頑張って自分の理想像のようなものを追うのをやめて、形を作るのをやめた時、身体の奥のほうが、自然に働き始める。
人は案外、力を入れた時ではなく、力みを手放した時に、本来の自分を取り戻すのかもしれない。

それは身体だけの話ではなかった。少しずつ、人の感情や空気にも、必要以上に反応しなくなっていた。

人の不機嫌や言葉、誰かの愚痴、誰かの期待、「こうあるべき」という空気。
自分がコントロールできることとできないことの区別ができ始めて、無理に動かそうとしなくなったのである。

ちょうどその頃、私は北海道の旭川へ行った。
介護や、言葉の行き違いから生まれる摩擦や葛藤、いろんな感情を抱えたまま、たどり着いた旅だった。

けれど、旭川駅を出た瞬間、目の前に広がる土地の広さに心が弾けた。人の気配が薄い。煩わされていたもののちっぽけさに笑いそうになった。視界を遮るものがなく、呼吸まで深くなる気がした。
あれだけ心を占領していた「あの人」も「この人」も、そこにはいない。

山がある。
川がある。
空が広い。
ただ、それだけだった。

SNSの中では大問題みたいに感じていたことが、急に小さく見えた。
閉じ込められていた小さな箱から出て、世界がぐーんと川の向こうの山まで抜けた。

それ以来、嫌な言葉や空気に飲み込まれそうになると、私は心の中でこう唱える。

「旭川モード、オン」

すると、それらのノイズから少し距離が取れる。今ここにいる自分へ、ピントが合う。

「あきらめる」は、負けることではないと思う。
現実をちゃんと見ること。
無理に戦わないこと。
今の自分の位置を認めて、前に進んでいくこと。

ヨガで、できない自分から逃げずに積み重ねてきた時間は、たぶん目に見えないところで、自分の内側を耕していたのだと思う。それが「旭川モード、オン」という切り替えスイッチまで地続きで続いていた。

開脚は三十度ほどしか開かなかった。動かない身体を前に、苦笑いしながら続けたホットヨガももう15年になった。劇的にポーズができるようになったわけではない。体も相変わらず硬い。けれど私はようやく、力を入れ続けることだけが、生きることではないのだとわかった。

これからも私は、すぐに成果の見えないものに、静かに栄養を与えていきたい。きっと、それが私を支えてくれるのだと思う。

《終わり》

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