90メートルの恐怖とエメラルドグリーンの絶望、「れ」から「ら」へ。私、都合のいい女やめました《週刊READING LIFE Vol.366「もう戻れない」》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:藤原 宏輝(READING LIFE編LIFE編集部ライターズ倶楽部)
「もう、戻れない」 その言葉が頭の中をぐるぐると駆け巡った瞬間、前を見ても、後ろを見ても、くらくらするような空間が広がっている。身体中の細胞が恐怖で硬直したかのように、一歩も進む事ができず、私はその場にガタガタと震えながらしゃがみ込んでしまった。
足元に視線を落とせば、細い木製の板。その板の隙間からは、底冷えするような、しかしどこか現実味のないほど美しい、エメラルドグリーンの川が牙を剥くように静かに流れている。
「このままここから真っ逆さまに、落っこちるしかないのだろうか?」
そう思った瞬間、心臓がバクバクと跳ね上がり、喉の奥がカラカラに乾いた。ますます足がすくんで、指先一つ動かせない。冷たい汗が額から流れ落ち、目に入り視界を滲ませていく。
私の人生は、振り返ればいつもこんな感じだった。
ひとたび、恋愛という濁流に足を踏み入れ、誰かを好きになると……。
仕事でいくら毅然としていても、まるで小さな子供のように相手の顔色を窺い、主導権をすべて明け渡し、自分の価値を相手の評価に委ね、嫌われることを恐れる。
仕事での強さとは裏腹にある、圧倒的な精神的依存と脆さ。
‘夢の吊り橋’に彼とやってくるまでの私は、その歪んだ自分から目を背け続けていたのだ。
その日の朝は、抜けるような青空が広がる絶好のドライブ日和だった。
初夏の風が車の窓から吹き込み、新緑の匂いを運んでくる。車を走らせながら、たわいもない話をして笑い合っていた。
けれど今思えば、私は必死に幸せなフリを演じていただけだったのだ。
頭の片隅には常に「彼に嫌われたら、どうしよう」という、薄暗い霧のような不安がへばりついていた。
だから私は、いつも彼好みの物分かりの良い「いい子」でいようとした。
バックミラーに映る自分の笑顔が、酷くひきつって見えた。
自分の意思を殺し、相手の好みに合わせる事でしか、私は愛される資格がないと思い込んでいたのだ。
そんな私に「違和感」が襲いかかったのは、高速道路入り口の手前だった。
彼が突然、相変わらずの横柄な声で言った。
「高速乗るからさ、ETCカード貸してよ」
私は一瞬、耳を疑った。
「貸して」ということは、私のカードで彼の車の通行料を払えということ?
「会社に置いてあるから、持ち歩いてないの」
そう答えると、彼はあからさまに不機嫌そうな顔をして舌打ちをした。
その瞬間、数年前にお付き合いしていた年下の彼から言われた、言葉が強烈にフラッシュバックした。
「ねえ、お金貸してくれない? 明日、携帯止まっちゃうんだよね」
あの時の、胸の奥がドロリと重くなるような感覚……。
私は都合のいい女であり、彼の財布。として扱われていた。
その事に気づいた時の、あの痛々しい記憶が完全にリンクした。
それまで友人や仕事仲間に、そんなことを言われたことは一度もなかった。
「またか……。この人、もしかしたらあの時と同じ種類の人間なのかもしれない」
胸の奥から、冷たい嫌悪感がせり上がってきた。
これまで何度となく、目をつぶってきた小さなスレ違いや彼に対する「何かが違う」という違和感のパズルが、カチリと一つの不穏な絵を完成させつつあった。
「やっぱり、この人は違う」
その確信が私の胸を、静かに突き刺していた。
車は山深くに進み、駐車場へと滑り込んだ。
そこからしばらく、石ころを蹴飛ばし小鳥のさえずりを聞きながら、川沿いを歩いた。木漏れ日が降り注ぐ美しい小道で、私の心はさきほどのETCカードの一件から、ずっと冷え切ったままだった。
そんな私の気持ちに当然、彼は気づくはずもない。隣で自慢気にくだらない話を続けているその声が、私にはだんだん耳障りとなっていた。
「俺さ、本当に君と出会えて嬉しいよ。この前もさ、地元の友達に話したら『そんな金持ちの女社長と付き合ってて、いいな。めちゃくちゃ、羨ましいわ』って言われたんだよね」
彼はさも誇らしげに、満面の笑みで私に語りかけてきた。
その瞬間、私の頭の芯がサーッと冷めていくのが分かった。
「私、お金なんてないよ」
つい「この人アホなの、大丈夫? どんな話を周りにしているの」と思いつつ、努めてサラっと冷ややかな声で切り返したが、彼はそのトーンに全く気づかない。
友達に羨ましがられた事を今、私に話したのは
「僕は、君とはお金目当てで付き合ってます」という恥ずべき宣言。
少し考えたら、私に話す事ではない。と分かるはずなのに、そんなことをポロっと言っちゃうなんて……。そんな軽蔑にも似た感情が、胸の奥底から湧き上がってくる。
「やっぱ無理。いつ、どうやって別れを言い出そう」
実はここ1ヶ月ほど、その事ばかりを考えていた。
しかし、別れを切り出す事への恐怖が私の足を引っ張る。
きっと「なんでだ!」と大声をあげて威圧し、思い通りにならないことにキレて、怒鳴り散らすだろう。
彼は気に入らない事があると、突然激高するようなところがあった。
その姿が怖くて、私はずっと「別れたい」とか「別れて欲しい」という言葉を飲み込み、言えずにいたのだ。いや、言わなかったのだ。
そんな重苦しい思考を抱えたまま、無理して笑顔を作り進んで行くと、深いエメラルドグリーンの川に、長さ90メートル、高さ約8メートル、幅はわずか40センチほどの‘夢の吊り橋’が目の前に姿を現した。
長い列に並び、私たちの順番がいよいよきた。
私は両手で必死にワイヤーの手すりにしがみつきながら、恐る恐るなんとか歩みを進めた。
しかし、想像はしていたものの、半分も行かないところで、急に橋が上下左右に激しく揺れ始めた。
他の観光客が歩く重みや吹き抜ける風のせいで、揺れは増幅していく。
恐怖が限界に達し、膝から力が抜け、私はとうとうしゃがみ込んでしまった。
その時、前を進んでいた彼が一瞬だけ、後ろを振り返った。
「何、やってんだよ。後ろが詰まるだろ」そう吐き捨てた。
私を助けるどころか、さっさと吊り橋の先へ歩み去ってしまったのだ。
「私、ここに置いてきぼり……? ちょっとひどくない! 心配してくれないのッ?」
声にはならなかったが、心の中で叫びが響く。
怖さと、冷酷な彼への腹立たしさが同時に押し寄せ、脳裏がパニックに陥る。
数メートル先を進む彼は、振り返って笑いながら、私にスマホのカメラを向けてきた。
「早くこいよ、かっこ悪い」
ファインダー越しに嘲笑うかのように、手を差し伸べようとも、近づいて助けようともしなかった。
全身からじっとりと嫌な汗が吹き出てくる、心臓がバクバクする、喉はカラカラ、呼吸も浅くなる。
その時だった、この夢の吊り橋に来たからこそ、はっきり分かった。
「終わった……。もう、本当に全部終わった」
「もう、戻れない」 私は吊り橋の上でしゃがみ込んだまま、はっきりとそう確信していた。
後ろからは、どんどん次の観光客が渡ろうとして進んできている。
「ここで止まっているわけにはいかない」
私が進まなければ、完全に人の流れが詰まってしまい迷惑をかけてしまう。そんなことは、百も承知だった。
けれど「もう戻れない」という言葉は、物理的な状況だけを指しているのではなかった。
私の心は、吊り橋のように激しく揺れ動いていた。
心のどこかで「まだ彼が好きだから」と自分に言い聞かせ、これほど酷い目に遭わされているのに、つい「彼のことを許してしまおう」とする私のいつもの悪い癖。
「この人と別れたら、私の人生はこの先、どうなるのだろう?」という未来への恐怖。
いつもこうして問題から目を背け、誰かのせい、環境のせいにして自分を慰めていた未練と弱さ。
そんな過去の自分に対して「もう、都合のいい女には戻れないなあ」と思った。
その時、私はくるっと首を巡らせ、渡りきった吊り橋の先へと視線を向けた。
そこには何事もなかったかのように、得意げな顔をして立っている彼の姿があった。
「すでにこの人は、私の人生に1ミリも必要のない」
自分の気持ちに気づいてしまった、その瞬間。
不思議なことが起きた、あれほど私を支配していた恐怖がスーッと引いていき
「なんだか、行ける気がする」
という自信とヤル気が、胸を満たし始めたのだ。
「彼の元へ飛び込みたい、助けてほしい」という依存の気持ちはなく、真逆の感情だった。
「彼なんてもう、いなくて平気。いない方が私は、私らしく自由でいられる」
もう一人の私が、耳元でそう囁いた気がした。
「もう、戻らない」
私の頭の中で、言葉のひらがなが一文字、明確に書き換わった。
状況に流されて、引き返せないのではない。
私は強い意志で、怖いと怯えていた過去を断ち切り、自分の足で前に進むのだと決めたのだ。
「よしッ!」
私は声に出して、固まっていた心と身体に気合を注入し、立ち上がった。そして、幅の狭い板の上を自分の意志で、大きく一歩、踏み出した。
その瞬間、山を割るような強い風が吹き抜け、吊り橋が今日一番の大きさで激しくグワングワンと揺れた。
さっきまでなら悲鳴をあげ、しゃがみ込むような揺れだった。
しかしこれまで感じていた「怖い」という感覚はなく、気持ちが決定的に違った。
私の足取りは驚くほど軽くなり、揺れに合わせるようにリズムよく一歩、また一歩と、確実に前へと進んでいく。
完全に吹っ切れ、そのまま一気に吊り橋を渡りきったのだ。
「ほら、大丈夫だったじゃん」
吊り橋を渡りきった私を待ち受けていた彼は、馬鹿にしたように鼻で笑いながらそう言った。
かつての私なら、恐怖の最中に手を差し伸べてもくれず、支えてもくれなかった彼の冷酷さに傷つき、悲しい目を向けていたかもしれない。
あるいは、自分の不甲斐なさを恥じて、また「ごめんなさい」と縮こまっていたかもしれない。
けれど、今の私は違った。
私は彼の顔を見つめ、これ以上ないほどの最高の笑顔で言葉を返した。
「うん、自分1人で渡りきれたよ。大事なことに気づかせてくれて、本当にありがとう」
皮肉でも、強がりでもなかった。
自分を縛り付けていた依存の鎖を断ち切るきっかけを、その傲慢さによって与えてくれた彼に対して、心からの感謝が湧き出ていたのだ。
彼は私の言葉の真意が全く理解できないようで、不思議そうに首を傾げた。
もちろん、私の心の内なんて、彼に分かるはずもなかった。
あの恐怖の、細長く激しく揺れる‘夢の吊り橋’のおかげで、私は
「もう戻れない女」から「もう戻らない女」へと、完全に生まれ変わった。
「れ」と「ら」。
たった、一文字の違い。
しかし、そこには大きな隔たりがある。
あんなにも彼に依存し「この人がいなきゃ私はダメかもしれない」と怯えていた、90メートル手前の過去の私は、もうそこにはいなかった。
強い覚悟を持ち、自分の足で一歩を踏み出したこと。
それが私の中の未練を綺麗に払拭し、過去の私を大きく変化させていく……。
帰り道。
驚くほど冷静に丁寧に「今日まで、ありがとう。とっても勉強になったよ、色んなこと。私とでは、この先も私に対しての不満も出てくると思う。だから終わりにしよ、私よりもずっとあなたにぴったりの素敵な女性がいると思うから」
と自分の言葉で、きちんと別れを告げた。
彼は想像通り、いつものように威圧的に声を荒らげ、罵声を浴びせてくる。
「こんなにしてやったのに」と、言いたい放題文句を言っていた。
「ありがとう。でも、もうこの先はないから」
という迷いのない、私のあまりにも凛とした態度に気圧されたのか、それともおかしな男のプライドか、
「もう、いいわッ」とキレまくったが、最後には何も言えなくなった。
かつての私が恐れていた彼の怒りは、自分軸を取り戻した私の前では、ひどく小さく、無力なものに思えた。
それから時が流れ窓の外を見渡せば、街の緑は鮮やかな黄金や深紅へと染まり、すっかり季節は秋になっていた。
今の私は、これまでとは違う。
もう誰かに貢ぐようなことはしていないし、振り回される人生を選んでいない、嫌われることを怖がったりもしない。
あの夏の日の‘夢の吊り橋’での出来事。
『彼は私を置き去りにした。しかし、本当は私が彼を置き去りにしたのだった』
今は自分の意思を、相手にはっきり伝える。
ただ、感情をぶつけるのではなく、相手に伝わるように、理解してもらえるように、丁寧に伝える強さを持っている。
だからこそ、何かの人間関係や、環境に苦しんでいるあなたに、強く伝えたい。
あなたの心のアンテナが、何か違和感をキャッチしたなら、どうかすぐに立ち止まって、その声に耳を傾けてほしい。
「彼を失ったら、一人になってしまうかもしれない」
「この環境を手放したら、次がないかもしれない」
そんな風に「こうあるべき、こうでなきゃ」という自分の思い込みや、過去の執着をギューっと両手で握りしめていたら、新しいものは何一つとして手に入らない。
握りしめる力が強くなればなるほど、自分の心がだんだん苦しくなっていく。
もっと、本来の自分を取り戻して、生き生きと自分らしく生きていい。
勘違いしないでほしいのは「自分らしく生きる」というのは、我を張ったり、自分のわがままを周囲に押し通したりすることではない、という事。
それは、他人の顔色に怯えるのをやめ、自分の人生の責任を、自分で負う覚悟を持つということである。
‘本当の私は、いったいどこにいるのか?’
それは誰もが「可愛い、かわいい」と無条件に称賛され、ただ祝福されてこの世に生まれてきた、あの頃のまっさらな自分。
いつの間にか、私たちは育った環境や友達、家族、社会の繋がり、あるいはSNSなどの膨大な情報の中で、本来の自分を見失ってしまう。
他人の物差しを自分のものだと錯覚し「いい子」になろうとしてしまう。
「もう、戻れない」といつまでも過去に囚われ、何かのせい、誰かのせいにして、文句ばかり言い続けるのか?
たった一文字のひらがなを変えて、
「もう、戻らない」と自ら前を向き、自分の意思で選択をして、自分だけの未来に向かって、力強く進んでいくのか?
「れ」か?
「ら」か?
あなたは、どちらの生き方を選びますか?
あなたが本来の輝きを取り戻し、自分自身の人生を生きる‘今、という瞬間’に気付き、どうかキラキラと生きてほしい。
【終わり】
❒ライタープロフィール
藤原宏輝(ふじわら こうき)『READING LIFE 編集部 ライターズ俱楽部』
愛知県名古屋市在住、岐阜県出身。ブライダル・プロデュース業に25年以上携わり、2200組以上の花婿花嫁さんの人生のスタートに関わりました。思い立ったら世界中どこまでも行き、知らない事はどんどん知ってみたい。好奇心旺盛で、即行動をする。
何があっても、今を全力で生きる。切り替えが早く、とにかく前向き。
これまでのブライダル業務の経験を活かして、次の世代に、未来に何を繋げていけるのか?
といつも模索しています。2024年より天狼院で学び、日々の出来事から書く事に真摯に向き合い、楽しみながら精進しております。
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