温泉について考えると、私は夜も眠れない
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:よもぎもちもち(2026年5月開講・ライティングゼミ)
私はいま、とてつもなく憂鬱だ。
目の前には、すでに服を脱いで真っ裸になった息子が、ウキウキ顔ではしゃいでいる。一方の私は、まだ上着を脱いだだけである。
きっかけは、息子の運動会だった。がんばったご褒美にどこへ行きたいか聞いたら、近所のスーパー銭湯だと言う。ゲームセンターでも、本屋でも、遊園地でも、ほかなら何だって笑顔で「いいよ」と言ってやれる。だが、よりによってそれだけは勘弁してほしかった。温泉が——いや私にとっては、ただ大勢が浸かっただけの大きな風呂が、どうしても苦手なのである。
とはいえ、息子が選んだご褒美である。断れるはずもなく、私はいま脱衣所にいる。のろのろと残りを脱ぎ終え、浴場のドアを開ける。
洗い場に向かう途中、私は風呂場の床にできるだけ足の裏が触れないよう、つま先立ちで進む。風呂場の床には、本当にいろいろなものが落ちている。誰が洗ったのかわからないシャンプーの泡が流れ、少し行くと、どこに貼ってあったのかわからない絆創膏が落ちている。私は変なものを踏まないよう、床を凝視し、一歩ごとに着地点を選定しながら歩く。傍から見れば、いい大人が裸でつま先で歩いている、間の抜けた光景だろう。
でも、着地点を見誤って、何かの上に足を乗せてしまったときの、あの感覚が私はどうしても苦手なのだ。ぬるっとすることもあれば、がさっとすることもある。踏んでしまったものが何なのか、私は決して確かめない。いや確かめることはできない。
洗い場に着いて私が最初にやることは、風呂桶を床に置き、そこへ足を入れることである。私の足にとって、この桶は、この場所で唯一の安全地帯なのだ。
やっと腰を落ち着けた私は体を洗いはじめるが、息子はもう半分以上洗い終わっている。どれだけきれいに洗えと言っても、まるでちゃんと洗えていない。昔はよくやり直しを命じていたが、最近は見て見ぬふりをしている。生意気になってきたし、前ほど素直に言うことも聞かない。一緒に風呂に入るのも、あと何回あるだろうか。
それはさておき。人は思った以上に、自分の体をきちんと洗えていない。おそらく私もそうだ。そしてきっと、隣のおじさんも、その向こうのおじいさんもだ。
今日、仕事でたくさん汗をかいたおじさん。部活帰りの、蒸れた靴下を脱いだばかりの少年。ちゃんとおしりをふけているか微妙なおじいさん。体を洗ったとしても——いや、洗ったと思っても、人はそう簡単にすべてを洗い流せない。だから、そんな男たちの体から抽出された汚れや細胞や体液が、湯には確実に入り込んでいるのである。
もちろん、私の体には皮膚というバリアがある。きっと体のなかに入ってくることはないだろう。しかし、皮膚の外側には、見えない抽出成分が確実に浮いている。万が一、おじさんのおしりに触れた水分子が、息子が暴れた拍子に、私の口のなかに入ってしまったら。それは、おじさんのウンチを食べていることと同じなのではないだろうか。そして、一度口に入ったものは、風呂を出る前にもう一度シャワーを浴びたところで、洗い流せない。
そんな湯に、これから私は入らなければならない。
体を洗い終え、湯船に向かう。息子はもう首まで浸かって待っている。ここで大事なのは、入湯ポジションだ。
まず、なるべく人から離れて入る。おじさんの出汁、おじ出汁の濃度がなるべく薄い場所を選ぶのだ。だが息子は、なぜかいつも人でぎゅうぎゅうの湯船を好む。空いている湯船がすぐそこにあるのに、わざわざ混んだほうへ、ざぶざぶ入っていく。仕方なく、私もその濃い一角へついていく。
次に、なるべく湯の上流を狙うことも大切だ。湯口から流れ出て排水溝へ抜けていく循環、そのいちばん新しい湯の近くを取るのだ。そう考えて湯口の隣を陣取るのだが、「そこ熱いよ」と息子にあっさり手を引かれ、ぬるいほうへ連れ戻される。いちばん新しい湯は、いちばん熱い湯でもあった。
最後に、肩まで浸からず、胸のあたりで湯を止める。誰のものとも知れない細胞を、口や鼻から一片たりとも入れないためだ。湯をばしゃばしゃさせる人間には、絶対に近づかない。これだけは死守する。——はずだった。急に息子がくっついてきて、もっと深いところへ行こうと私の腕を引く。最初は抵抗した。だが、なすすべもなく、湯の奥へ引きずり込まれていく。
結局、肩まで浸かってしまった。おじ出汁が、あの水分子が、いま私の首から下の体中の表面を覆っている。そして、今か今かと私の体の中にINしようとしている。地獄だ。私の我慢が頂点に達したとき——ふと隣を見ると、息子の顔は、天国だった。肩まで湯に沈めて、とろけそうにしている。
その顔を見ていたら、私まで、なんだか気持ちよくなってきた。体の外側のことは、いったん考えるのをやめてみる。体の内側だけに意識を向ける。すると、そこにはたしかに、温泉特有の心地よさがあった。ぽかぽかと、体の芯があたたまっていく。
「気持ちいいね」、息子と顔を見合わせる。
それからは、いろんな話をした。学校でのこと。私のいないところであった兄弟げんかのこと。お母さんのこと。息子は普段は言わないようなことを、ぽつぽつと話してくれた。温泉の湯には、いろんなものが溶け出していた。おじさんの出汁も、いつもは硬い息子の本音も。
とはいえ、私にはまだ大仕事が残っている。この湯にまみれた体を、少しでもきれいに拭くことだ。それも、息子ごと。
湯船に満足した息子にシャワーをかけて流し、私も湯を洗い落とす。それからつま先立ちで脱衣所へ戻り、体を拭く。ここでも気を抜いてはいけない。バスタオルで足を拭いた面を、決して顔や髪に使わないことだ。
洗い場からここまで、風呂場の床を歩いてきた私の足は、いわば風呂場の床そのものである。だから、それを拭いたタオルの面で顔を拭くのは、床で顔を洗うのと同じことだ。そんなことは、絶対に嫌だ。
どの面で何を拭いたかを厳密に管理しながら、自分と息子の体を拭き上げていく。そして最後に足の裏を拭き、靴下を履き直したとき、私はようやく、安息にたどり着くのである。
温泉は、やっぱり苦手だ。でも、来週もまた来ることになる気がしている。……次こそは、もっと完璧な防御態勢で挑もう。そう考えると私は夜も眠れない。
〈終わり〉
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