【連載第52回】《“治す側”から“治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』「同じ体操が、家では『宿題』になっていた」―「歩く、歩く」と私の手を握った女性と、心配する両親―
記事:内山遼太(READING LIFE公認ライター)
※本作は、天狼院書店『週刊READING LIFE』の連載作品です。作業療法士としての経験をもとに、個人が特定されないよう事実関係を再構成し、一部フィクションを含みます。療法士の内面や、関わりの中で生まれた変化を小説として描いています。
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「体操、やる」訪問するたびに、彼女は自分からそう言います。四十代後半の女性で、言葉は単語が中心ですが、やりたいことははっきり伝えてくれます。ところが週末、両親の家で同じ体操に誘われると、まったくやろうとしないのだそうです。同じ体操なのに、どうして。その理由を探すうちに、私は自分が両親に渡したものの意味を、考え直すことになります。これは、私が家に託した体操と、彼女のペースをめぐる物語です。
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「体操、やろう。体操、やろう」
私が部屋に入ると、Yさんは待ちきれない様子で、何度もそう繰り返しました。知的障害のあるYさんは、若いころからグループホームで暮らしています。長く暮らしてきたその家が、Yさんにとってどれほど大切な場所なのかは、世話人さんと話すときの明るい声を聞けばすぐに分かります。平日の昼間は同じ法人の作業所に通い、週末になると両親の待つ実家へ帰る。それが、Yさんの長く続いてきた暮らしです。
訪問リハビリが始まったのは、ひと月ほど前のことでした。ここ最近、股関節や腰に痛みが出てきて、Yさんの動く量が目に見えて減っていたからです。週末に実家へ帰ると、両親と一緒に出かける散歩が、Yさんの日課になっていました。その散歩にも、最近は行けていません。両親にとっても、娘と並んで歩く週末の散歩は、元気でいることを確かめ合う、大切な家族の時間だったのだと思います。
「少しでも、また歩けるようになってほしいんです」
リハビリを頼んできたのは、両親でした。訪問の日には、今も毎回、両親がグループホームまで来て付き添ってくれます。体を動かす時間を守るために、私は股関節や腰の痛みを減らすための体操をいくつか選び、Yさんと一緒に練習を始めました。訪問で会えるのは、一週間のうちのわずかな時間にすぎず、それ以外の時間にどれだけ体を動かせるかで、痛みや動きは変わっていきます。だから私は、同じ体操を自主トレーニングとして、Yさん本人と両親に渡しておきました。家でも続けられる体操を渡すのは、私にとって当たり前の手順だったのです。
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二週間ほどたった訪問の日、体操を終えたところで、付き添っていた両親が話してくれました。
「家だと、体操をまったくやってくれないんです。声をかけても、嫌がって」
その声には、心配と、少しの疲れが混じっていました。散歩に行けない週末が続き、体操もしない。このまま動けなくなってしまうのではないか。両親がそう不安になるのは、当然のことだと思います。
私が最初に疑ったのは、体操の中身でした。グループホームの世話人さんからは、Yさんは新しいことを覚えるまでに時間がかかると聞いています。渡した体操は、種類が少し多かった。まだ覚えきれていないのかもしれない。一人でやるには難しすぎたのかもしれない。私はまず、Yさんの側に、できない理由を探していました。
けれど、それでは説明のつかないことがありました。訪問の日のYさんは、自分から「体操、やろう」と言い、終わるまで楽しそうに体を動かします。嫌いなのは体操そのものではない。それなら、家で嫌がっているのは何なのか。
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その答えに近づいたのは、次の訪問の日でした。
いつもの体操を終えて、私が片づけを始めようとしたときです。Yさんが、急に私の手を握りました。
「歩く、歩く」
握る力は思ったより強く、Yさんは私の手を引いて、もう立ち上がろうとしています。その日は痛みの様子を見ながら、部屋の中を少しだけ、手をつないで一緒に歩きました。足取りはゆっくりでも、Yさんは一歩ごとに確かめるように床を踏んでいます。
歩きたくない人ではなかったのです。両親が何より心配していた「歩くこと」を、Yさんは自分から言葉にしていました。足りなかったのはYさんの気持ちではなく、その気持ちが出てくるための、何か別のものでした。
知的障害のある人と関わっていると、自分のペースをとても大切にしている人に多く出会います。いつ、何を、どのくらいやるか。そのペースを周りに乱されることを嫌い、嫌なことははっきり「嫌」と示す。Yさんも、きっとそうでした。
両親は心配のあまり、作業所にも体操の時間をつくってもらえないかと掛け合い、週末の実家では、特にお母さんが「体操しよう」「ほら、やろう」と何度も声をかけていたそうです。それは愛情から出た言葉です。けれどYさんにとって、作業所でも実家でも、体操は「やらなければいけないこと」として追いかけてくるものになっていました。訪問の日の体操は、私と一緒に楽しむもの。家の体操は、言われてやるもの。中身は同じでも、Yさんにとってはまったく別のものだったのです。
両親の「やろう」も、責められるものではありません。娘の体を誰より心配し、長いあいだ週末を一緒に過ごしてきたからこそ出てくる言葉です。そして、その「宿題」を家に持ち込んだのは、私でした。体操を伝えたとき、私は両親の心配に、やらせるための道具を一つ渡していたのかもしれません。
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次の訪問で、私は付き添っていた両親にこう伝えました。
「少しずつ、やっていきましょう。Yさんには、Yさんのペースがあります。焦らずに、Yさんの『やりたい』という気持ちを大事にしていきませんか」
両親は、すぐには納得できない様子でした。痛みが出て、散歩に行けなくなり、このままでいいのかという不安は消えません。それでも両親は、訪問の日のYさんが自分から「体操、やろう」と言い、「歩く、歩く」と私の手を引く姿を、いつもすぐそばで見ています。そのことを一緒に振り返ると、両親の表情が少しだけやわらいだように見えました。
Yさんの大切な場所は、長く暮らしてきたグループホームと、両親と過ごす週末です。その週末を、体操をめぐる言い合いの時間にしてしまっては、元も子もありません。体を動かすことも大切ですが、両親と過ごす時間がYさんにとって楽しいものであり続けることも、同じくらい大切だと思うのです。
リハビリは、体の機能を保つためだけのものではなく、その人の暮らしを支えるためにあります。同じ体操でも、誰と、どんなペースで、どんな気持ちでやるかによって、楽しみにもなれば、苦しい宿題にもなる。Yさんに必要だったのは、体操の数を増やすことではなく、「やる」という言葉が自分から出てくる時間を、守ることでした。
言葉の少ない人の「やる」や「歩く」は、見逃されやすい意思表示です。周りが心配から先に目標を決めてしまうと、その小さな声は、励ます声にかき消されてしまいます。本人のためと思って重ねた「やろう」が、本人の「やる」を遠ざけることもある。Yさんの手の強さは、そのことを私に教えてくれました。
【今週の再起動実験】「やろう」を、「どれにする?」に変えてみる
家族や子ども、職場の後輩などに、「その人のため」と思って何かを勧めているなら、今週は「やろう」と言う代わりに、「どれにする?」「いつにする?」と、選べる形で聞いてみてください。運動でも、勉強でも、片づけでも同じです。中身を一つも変えなくても、自分で選んだことは「やらされること」から「自分のこと」に変わります。断られた日は無理に誘わず、その人が好きなことを一緒に楽しむ時間にします。
反対に、自分自身に「やらなきゃ」と言い聞かせていることがあるなら、一つだけ選んで、いつ、どこで、誰とやるかを自分で決めてみてください。人から言われた十のことより、自分で決めた一つのほうが、ずっと長く続きます。
体を動かすことに取り組む場合は、痛みや体調の変化があるときに無理をせず、気になることは医師やリハビリ職に相談してください。
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次の訪問でも、Yさんは部屋に入った私を見るなり、こちらが何か言う前に「体操、やろう」と言いました。体操が終わると、また自分から私の手を握り、「歩く、歩く」と言います。
今度の週末、Yさんが両親と散歩に出られるかどうかは、まだ分かりません。痛みのある日もあるでしょうし、気分の乗らない日もあるでしょう。それでも、Yさんの「やる」は、誰かに言わされた言葉ではありません。
その言葉が出てくる場所を、訪問の日だけでなく、両親と過ごす週末にも、少しずつ増やしていけたらと思います。私の手を握ったあの強さを、今度はYさんが、自分の歩幅で使えるように。
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❏ライタープロフィール
内山遼太(READING LIFE公認ライター)
千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。
作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。
終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。
現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。
2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から“治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。
天狼院メディアグランプリ75th Seasonにて総合優勝。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
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