My Sweet Home―「ただいま」のある場所―《絶対麗度ライティング》
*この記事は、「絶対麗度ライティング」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:伊藤美那(絶対麗度ライティング)
あなたには、家がありますか。
帰ってきたら、ほっとする。
玄関のドアを開けて、
心から「ただいま」と言える。
そんな家がありますか。
私は、ずっと、
そういう家を持っていると思っていた。
25歳のとき、
大好きな人と結婚した。
あの頃の私は、
これから先もずっと、この人と一緒に笑って暮らしていくのだと思っていた。
子どもがひとり生まれた。
ふたり目が生まれた。
そして、三人目。
気がつけば、家の中はいつも、誰かの声であふれていた。
子どもたちの笑い声。
泣き声。
犬の足音。
猫の鳴き声。
5人家族になり、
犬と猫も加わった。
にぎやかで、幸せな家だった。
少なくとも、あの頃の私は、
そう信じていた。
……はずだった。
いつからだろう。
「ただいま」と言うために開けていた玄関のドアが、
いつしか、身構えるための境目になっていた。
玄関の鍵が回る音がすると、
身体が、少し固くなる。
車が帰ってくる音。
玄関のドアが開く音。
廊下を歩く足音。
そのひとつひとつを、
身体が先に覚えていた。
夫は、大家族の長になった。
そして、少しずつ、姿を変えていった。
自分の思い通りにならないことがあると、
声を荒らげる。
機嫌を損ねる。
家族は、夫の顔色をうかがうようになった。
いつの間にか、家の中には、
「正解」がひとつしかなくなっていた。
夫が望む答え。
夫が望む暮らし。
夫が望む家族。
その枠から少しでもはみ出せば、
空気が変わった。
だから私たちは、
夫に気を使って暮らすことを覚えていった。
今日は機嫌がいいだろうか。
今、話しかけても大丈夫だろうか。
これは言ってもいいことだろうか。
家なのに、安心できない。
家にいるのに、心が休まらない。
「ただいま」と帰ってきたはずなのに、
そこから始まるのは、
緊張と疲労だった。
私は、少しずつ、諦めていった。
そして、ある日。
家を出ることにした。
夫が仕事に行っている間に。
3人の子どもと、
犬と、猫を連れて。
とにかく、ここから出なければ。
そう思った。
玄関のドアを開けたあの日、
私は「行ってきます」とも言わず、
「さようなら」とも言わず、
家を出た。
後ろを振り返ることもしなかった。
帰宅した夫は、
さぞかし驚いただろう。
まさか、家族がいなくなっているなんて。
寝耳に水だったに違いない。
でも、私には、
もう戻るという選択肢はなかった。
新しい生活は、決して楽ではなかった。
家事も、仕事も、子どものことも。
全部、自分でやらなければならない。
不安もあった。
これからどうなるのだろう。
何度も、そう思った。
それでも、不思議だった。
大変なのに、心は軽かった。
朝、目を覚ましても怖くない。
玄関の音に身体を竦めることもない。
子どもたちの声が聞こえる。
犬が走り回る。
猫が窓辺で眠っている。
そんな当たり前の景色が、
少しずつ私の中に戻ってきた。
愛犬と子どもたちと散歩に出る。
歩きながら、たわいもない話をする。
学校の話。
推しの話。
友達の話。
誰かがくだらないことを言って、
誰かが笑う。
その笑い声につられて、
また誰かが笑う。
家に帰れば、
それぞれが自然に動き始める。
ひとりは愛犬の足をきれいにする。
ひとりはお風呂を掃除する。
もうひとりは、ご飯の準備をする。
誰かに言われたわけでもない。
誰かが家族を動かしているわけでもない。
ただ、それぞれが、
自分にできることをしている。
助け合って、生きている。
そんな暮らし。
夕食の時間になると、テーブルを囲んで、
今日も、たわいもない話が続く。
くだらないことで笑って、
どうでもいいことで盛り上がる。
誰かがワハワハ笑い出すと、
みんなもつられて笑う。
私は、そんな時間がいちばん好きだ。
食事が終わると、私はマグカップを取り出す。
リプトンのティーバッグを入れ、
ポットからお湯を注ぐ。
少し待って、
冷蔵庫から出した牛乳を適当に注ぐ。
特別な紅茶じゃない。
高級なカップでもない。
ただのミルクティー。
そして、スーパーで買ってきたカントリーマアムの大袋を開ける。
「もう誰? またバニラばっかり食べたのは?」
「いいじゃん」
そんな、どうでもいい会話が始まる。
今日あったこと。
誰かの失敗。
明日の予定。
どれも、わざわざ覚えておくような話ではない。
それでも、話は尽きない。
笑い声が、また家の中に広がっていく。
ミルクティーをひと口飲む。
あたたかくて、
甘くて、
少しだけぬるい。
その味に、ふっと力が抜ける。
特別なことは、何もない。
ただ、家族と一緒にご飯を食べて、
ミルクティーを飲んで、
カントリーマアムをつまみながら、
くだらない話をして笑っている。
それだけ。
でも私は、
そんな時間を幸せだと思う。
そう思える私は今、
本当に幸せなんだな、と。
あの頃の私は、
「家族を守る」ということは、
家を守ることだと思っていた。
家を出たら、
家族を壊してしまうような気がしていた。
だから、怖かった。
でも、違った。
守りたかったのは、
家という箱ではなかった。
子どもたちが、安心して眠れること。
笑いたいときに笑えること。
泣きたいときに泣けること。
誰かの顔色をうかがわなくてもいいこと。
そして、帰ってきたときに、こころから
「ただいま」
と言えること。
人は、誰しも一度はマイホームの夢を描く。
緑の芝生がある庭。
広いリビング。
白い床。
使いやすいアイランドキッチン。
どんな家にしようか。
どんな家具を置こうか。
そんな妄想は、きっと尽きない。
けれど、
本当に大切なのは、
箱の形ではなかった。
そこにいる人が、
安心して自分でいられること。
それが、家なのだと思う。
今夜も、マグカップから湯気が立っている。
カントリーマアムの小袋が、
テーブルの上に並んでいく。
誰かがまた、
どうでもいい話を始める。
そして、笑い声が聞こえてくる。
そんな、何でもない夜を、
私は幸せだと思う。
家とは、
そこに暮らすみんなが、
安心して帰れる場所。
「ただいま」と言える場所。
そして、
「おかえり」と迎えてもらえる場所。
私がずっと欲しかった「家」は、
きっと、そんな場所だった。
***
この記事は、天狼院書店の「絶対麗度ライティング」にご参加の方が書いたものです。
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