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となりの席の神様


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記事:さわみ(ライティング・ゼミ日曜コース)

 
 
「あなたの方から、笑顔でみんなに挨拶すればいい。そうすれば、そこはあなたにとって居心地の良い素敵な場所になりますよ」
そう言って、老紳士は笑顔でこちらを一度振り返ると、電車を降りていった。
 
朝のラッシュで混み合う地下鉄の中、私は緊張しながら座席に座っていた。
その日は、先日やっと採用された会社に、初めて出勤する日だったのだ。
 
私は、大学を卒業してから約4年間、営業の仕事に就いていた。結婚を機に転職後は、3年間の契約職員として事務職の仕事に就き、ちょうど契約が切れる3年目の終わりに妊娠。
そこから家庭に入り、専業主婦になった。
 
妊娠中は、久しぶりの自由な時間を満喫しながら、これから生まれてくる赤ちゃんのための準備などで楽しく過ごしていた。
赤ちゃんが生まれると、最初の頃こそ忙しくて毎日があっという間に過ぎていったけれど、1歳になる頃には、家の中で赤ん坊と二人きりの生活に耐えきれなくなってきていた。
育児サークルを何ヶ所も掛け持ちし、赤ちゃん連れでも通える教室に通う日々。
 
毎日、何かしら用事は入っていて忙しい。子どもとの生活は充実しているはずなのに、常にイライラして何かに焦っている自分がいる。
ある子連れの勉強会で、他のお母さんが言った言葉がそんな私の気持ちを決定づけた。
「育休の間は、子育てを楽しむ予定です。育休が終わったら、仕事に戻らないといけないですしね。子どもと一緒にいられる短い時間を、精一杯満喫します」
 
そうだ。私には、終わりが無い。この、社会と断絶された生活の終わりが見えない。もしかすると、もう私は世の中で使い物にならない人間になってしまったのではないか? 社会では必要とされないのではないか?
出口の見えない長いトンネルの中にいるような、そんな言い表せない焦りと恐怖から、娘にあたってしまうことが多くなった。
 
このままではダメだ。何とかして、社会と繋がろう。世の中に出よう。
決心をして動き始めた私に、保育園の問題や採用面接での厳しい質問など、一度社会から離れてしまったら簡単には戻れない、世の中の仕組みが壁となって立ちはだかる。
それでも、不採用になっても諦めずに何社も受け続けた結果、ついに有期雇用のパート社員として、事務職の仕事が決まった。
やっと、仕事ができる。社会と繋がれる。頑張らなければ!
 
初出勤の前の日の夜は、なかなか眠れなかった。
もしも、ブランクの間に自分が使えない人間になっていたらどうしよう。
社会で通用しなくなっていたら、どうしよう。
新しい会社の人たちと、うまくやっていけなかったらどうしよう。
「だから主婦はダメなんだ」と思われたらどうしよう。
 
翌朝、久しぶりに乗る、ラッシュで混み合う地下鉄。
これから始まる初出勤のことを考えると、緊張と不安に押しつぶされそうになる。
そんな気持ちを振り払うように、私は真っ直ぐに前を向いて座り、ドキドキと鳴る心臓の音に気づかないふりをした。
 
「あなたは、真っ直ぐに前を向いていてすごくいい」
と、突然となりから話しかけられた。
 
驚いて声の方を向くと、老紳士が笑顔でこちらを向いている。
「突然申し訳ない。でも、あなたが真っ直ぐに顔を上げているのがすごく良かったから。ほら、周りを見てごらんなさい。誰も彼もが皆下を向いている」
老紳士にそう言われて車内を見回すと、確かにほとんどの乗客が下を向いている。
 
「前を向いている人は、生き方も前を向いている。そして、あなたは目がすごくいい。ちゃんと、これから先を見ている目ですね」
初めて会った、しかもたまたま隣の席に座った人に急にそんなことを言われて、不審に思い戸惑いながらも「ありがとうございます」と、私は笑顔でお礼を伝えた。
話しかけられたことで、少し緊張もほぐれたのだ。
 
「そう、その笑顔。あなたの方から、その笑顔でこれから出会う人たちに挨拶をすればいい。そうすれば、きっと皆も笑顔であなたを迎えてくれて、あなたのいる場所は素敵な居心地の良い場所になりますよ」
そう言うと老紳士は立ち上がり「どんな時も、その笑顔を忘れずに」と言いながら、一度こちらを笑顔で振り返ると、そのまま電車を降りて行ってしまった。
 
多分、時間にするとほんの短い間の出来事。
たまたま乗った電車で、隣に座った人が話しかけてきただけのことかもしれない。
でも、私にとっては、ずっと忘れることのできない出来事になった。
 
この扉を開けると、新しい世界が始まる。緊張しながら会社の前に立つ私の頭には、先ほど出会った老紳士の言葉が繰り返されている。
「おはようございます! 今日から、よろしくお願いいたします」
私は、思い切って扉を開けると、笑顔で挨拶をした。
 
出産、育児のブランクを経て、初めて社会に出るきっかけをもらったこの会社で、私は半年間お世話になった。
短い期間だったけれど、本当に働くことが楽しくて仕方が無いと思えた半年間だった。
そして、私にとって、とても居心地の良い素敵な職場だった。
 
その後、何度かの転職を繰り返しながら、今も私は社会に出て仕事をしている。
どの職場でも温かく接してくださる方が多く、本当に周りの人に恵まれている。
それでも、新しい職場に初めて行く日は、今でも緊張して不安になる。
 
「どんな時もその笑顔を忘れずに、あなたの方から笑顔で皆に挨拶すればいい。そうすれば、あなたのいる場所は素敵な居心地の良い場所になる」
そんな時、いつも思い出すあの日の言葉。
 
あの朝以来、一度もあの老紳士に出会うことは無かった。
彼は一体、何者だったのだろう。
 
今日も私は、真っ直ぐに前を向いて職場に向かう。
うん。今日もきっと良い一日だ!

 
 
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2018-09-12 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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