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「才能がない」というのはその才能がある証拠


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記事:小池恵美(ライティング講座平日コース)
 
「俺、文才ないんだよな……」と、その人は言った。本を三冊出版して、そのうちの一冊は外国語に翻訳もされた彼が。
 
「自分には才能がない」と言う人が、そのことに関して全く才能がない可能性はゼロだ。例えば「文章を書く才能がない」とか「うまく話す才能がない」とかはっきり言えるとしたら、そこに必ずその人の才能が眠っている。同じ「書く才能がない」という中でも「構成力がない」「表現力がない」とか、「うまく話す才能がない」という中でなら「間が悪い」だとか、細かいことがわかっていればいるほど、その才能は確実にある。なぜなら、全くないものにはそもそも気づくことができないからだ。
 
以前、ある人に「誰にでも好かれる、親切、気が利く」この全てが私の才能だと言われたことがある。そう言われるまで40年間ずっと、私は人に嫌われていると思っていた。冷たくて、感じが悪くて、どうしてこんなに気が利かないんだろうと思っていた。
 
うまく気を遣うことができないから、人と話すのが本当に苦手で苦痛だった。誰かと話した後にはいつも、なんであんなこと言っちゃったんだろうとか、なんであのときもっとうまく動けなかったんだろうとひとりで反省会をし、自分を責めたりしていた。誰にでも好かれるような、親切で気が利く人になりたいとずっとずっと思っていた。
 
確かに「優しい」と何度か言われたこともあったけれど、その度に何を指して「優しい」と言われたのか、全く見当がつかなかった。こんなに冷たいのに、感じ悪いのに、何を言われているんだろう、と。
 
でも、あるとき気づいた。私が私を気が利くとか優しいとか思えなかったのは、私なんか比べものにならないくらいにたくさんの人に愛されて、本当に優しくて、どこまでも気が利く人を間近に見ていたからかもしれないなと。
 
あの人に比べれば私なんてとずっと思っていた。いつかあの人みたいに、人の気持ちに気づいて、すべてを掬い取って動けるようになれたらいいなとずっと思っていた。その人には一生、追いつけないであろう私には、その才能があるとは全く思えなかった。
 
その人は、人の動きや目線に敏感だった。人が遣う言葉の細かいニュアンスの違いを聞き逃さない人だった。人がしてほしいことが手に取るようにわかっているように見えたし、いつも目の前の人の心を一グラムでも軽くするために行動していた。いつ、誰に会ってもお礼を伝えられるようにとカードやリボン、筆ペンを持っていた。周りの人を楽しませるために、しあわせな気持ちにするために、そこまで周到に準備して、気を配っているのかと思うと、私にはできないと思った。この人には絶対に追いつけないと思って、気が遠くなった。
 
ただ、すべての人がそれに気づいている訳ではないとも思った。私が理想とするあの人が、どれだけ人を大切にして、どこまで気を遣って行動しているかということに、気づいている人ばかりではないはずだと思った。
 
何も気づかない人が見れば、ただの気の良い人に見えるかもしれない。ただ運がよくて目上の人には可愛がられ、何もしていないのにちやほやされているだけの人に見えるかもしれない。
 
でも、私にはその人の愛の深さと気遣いの細やかさと、それが行動にすべて繋がり、表れていることが見えていた。しかもそれが決して全てではなくて、私もまだ気づかないほどたくさんのことに気づいて、その愛を表現している。きっと。
 
その人がどれだけすごいことをしているか、私がそこに気づいていたことが、私に才能があった証だと思ったのだ。
 
すべての世界に、凡人にはわからない領域がある。興味がなければ意識すら向かないほんの少しの、けれども圧倒的な「違い」。
何気なく聴いている音楽のほんの少しの技術の違いも、才能のある人にはわかる。気づく。
  
コーヒーの味。広告のコピー。数式の美しさ。前を走る車を抜くためにアクセルを踏み込むタイミング。ボールを投げるフォーム。立ち姿。
 
才能のない人には何も見えないところに、才能がある人は気づく。
圧倒的な違いがあることに気づく。
  
自分には文才がない、と言っていたあの人は、ときどき、好きだった本の一部を、とても大切な人のことを話すように諳んじた。何も見ずに、好きだった文章をさらさらと口にする。
  
そして、この文章のこういうところがいいよなって言うのだけれど、どうしてその文章をそう読み取れるんだろうっていうような感想をいつも言った
 
同じ文章を、そんな風に読むのはその人だけだろうと思っていて、その人が見ている世界を観ることができたらどんなにいいだろうと思った。
  
本当にたくさんの本を色鮮やかに深く読む人だから、素晴らしいと言われる文章がどれだけ素晴らしいのかを、普通の人の何倍も肌で感じていて、手が届かない場所にあることが痛いくらいにわかっていた。才能があったからこそ、理想までの果てしない距離が確かに見えた。
  
それを、言葉にしようとすれば「才能がない」になってしまうのかもしれないけれども、それはあまりにも乱暴すぎる言葉選びだ。
才能があるから、苦しいんだ。才能があるから、「ない」というんだ。
だから「ない」と言ったその才能が自分も欲しいなら、その距離を掴んで、何が違うのかを見つけて埋めて、近づけばいいんだ。「ない」と思うのなら、必ずその才能は「ある」のだから。
 
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2018-09-27 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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