わたしがのだめになった日~コンチェルト狂騒曲
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:北川香里(ライティング・ゼミ平日コース)
朝7時、アラームが鳴る。いよいよこの日が来た。不安でもなく、のんびりでもなく、ちょっとしたワクワク感がある。やっと終わる。そして終わってしまうのだ、今日。
手の爪を切る。長すぎず短すぎず。午後になると少し伸びているはず。午後にちょうどよくなるように切っておくのだ。練習のときは平気なのに、本番の前には、この爪は長すぎるのではないか? と気になり始めるから困る。
なんの変哲もない朝の一コマ。ここから、夜まで続く熱狂の一日が始まる。
お昼を食べる時間から逆算して、多すぎない朝ごはんを口に入れる。カフェインの強い飲み物は、欲しかったら午前中に一杯だけだ。本番前は気がたかぶる。体の変化に敏感になる。おいしすぎるブルーマウンテンなど飲んでしまうと、体がびっくりしてしまうのだ。ありがたいことに、体調はいつも通りだ。
予定通り会場につくと、ほかの出演者とお話したり、楽譜を見たりしながら、心の準備をする。そうこうするうちに、いよいよ自分の前の人が演奏し始めた。ドアの隙間から会場の様子をうかがう。
ピアノが弾いている!
楽団のみんなが弾いている!
お客様も聴いている!
すでに始まっているのだ、ピアノコンチェルトコンクールが!
ピアノ協奏曲とは、88の鍵盤であらゆる音を同時に出せる楽器の王様に管弦楽が加わった、もっとも贅沢な音楽のカタチだ。それゆえに、作曲家は腕をふるって名曲を書き残している。そんな名曲ばかりを、15人のピアノ弾きが入れかわり立ちかわりを弾く。今日はそんな前代未聞のイベントなのだ。ピアノ協奏曲を弾く酔狂な人がこんなにいるとは。自分も含めて、ピアノに関してはクレイジーすぎる人たちが一堂に会している。
華やかなハイヒールでわたしが足を踏み入れようとしている会場は、小さいながらもお客様でいっぱいだ。期待をもって興奮の目撃者となろうとしている。
オーケストラの皆さんは、朝10時からのリハーサルに始まって、お昼休み以外、よる8時近くまで、バイオリンの弦も切れよとばかり、演奏しっぱなしだ。彼らこそ、今東京でもっともファナティックなオケ奏者だろう。
マエストロと呼ばれる指揮者の先生は、エネルギッシュに楽団を導き、ソリストをサポートしている。2時間のコンサートを半日で3つやるあいだ、その熱量は下がることを知らない。先生を突き動かす音楽への愛、奏者への慈愛、聴衆への献身もまた、尊敬すべき一流のファナティックだ。
「次は北川さんです」
主催者の人がわたしのプログラムを紹介してくれている。曲は、自分で選び、小編成のオーケストラむけに編曲していただいたものだ。この編曲で演奏されるのも、わたしが演奏するのも初めてだ。
拍手をいただきながら、そこにいるすべての人の前にわたしは登場した。
コンサートマスターとの握手には、オーケストラ全員へのよろしくというメッセージをこめる。そして指揮者と握手。マエストロは、握手もパフォーマンスの一部だよ、と身をもって示すように、エレガントな会釈を返してくださる。
深くお辞儀をすると、わたしはピアノの前に座った。もう引き返せない。
来い、わたしのコンチェルト!
ハンカチで鍵盤をぬぐい、椅子を微調整して用意ができると、マエストロは気配を感じて振り向く。わたしは軽くうなずきアイコンタクトを送る。
「始めてください」
マエストロはうなずくとオケに向き直り、タクトを振る。バイオリンのなめらかな序奏が始まる。そう、これだ。ショパンのピアノ協奏曲第二番ヘ短調。第一楽章マエストーソ。
前奏を聴きながら気持ちを高める。スタートを待つアスリートのように。2分を超える長いオーケストラパートが盛り上がり、また静まる。フルートがメロディーを奏で、ストリングが弱音で待つ。いよいよピアノソロの登場だ。
春や夏ではなく冬のイメージ。明るいか暗いかなら、暗いイメージ。若いか練れているかなら、若い。愛か恋かなら恋。南ではなく北ヨーロッパ。針葉樹の森。凍った湖。
わたしがこの曲の抱いているイメージだ。
去年は同じショパンでも一番の協奏曲を弾いた。情熱的といっていい音楽のイメージと、エベレストのようにそびえる曲の難易度に挑む気持ちで、赤い衣装で臨んだ。
今日はブルーグリーンのロングドレスだ。この曲の持つ若さ、翳り、みずみずしさ、清冽さ、透明感、ういういしさ、せつなさ。そのすべてを思ったら青系しかあり得なかった。
冬にゼロからスタートした練習を、あり得ない忍耐強さでレッスンしてくださったピアニストの先生も、ここにいらっしゃる。わたしのほぼ背後に座っていらっしゃるのだ。もはやなんのごまかしもできない。今できることをさらけ出すしかない。
選曲したときから、オーケストラと弾くこの瞬間をどれほど待ちわびただろう。そしてどれだけ恐れただろう。
ピアニストの先生に伴奏していただいてもうまく弾き通せない。そのまま迎えた代指揮の方とのオーケストラ練習では、何度もやり直していただいた。やっと先週、前半部分がまとまってきたが、第3楽章は課題があった。集中して取り組んだとはいえ、余裕があるはずもない。
いろいろなことが脳裏をよぎる。そしてここは晴れの場。お客様には音楽だけでなく、奏者のまとう雰囲気、衣装、表情、動きのすべてを楽しんでいただくのだ。わたしは完全に没入していた。
ホルンのソロが角笛のように鳴り響く。気がつけば第三楽章のラストに入るところだった。
動け私の指!
頭ではひたすら音符を歌う。わたしは最後の力を振り絞った。
両手の激しいトレモロ。一瞬の静寂。怒涛のようなパッセージがピアノの上から下まで降りてくると再び駆け上がってフィニッシュだ。オーケストラがコーダを鳴らして、20数分の演奏は幕を閉じた。
拍手が聞こえてきた。わたしの熱狂はお客様に伝わっていたことがわかる。楽しんでくださったなら、もうそれでいい。
わたしはマエストロに手を差し伸べた。良かったよ、という表情でわたしの手を握った先生から、オケもねぎらってあげて、という声が聞こえてくる。わたしは感謝の気持ちをこめてオーケストラの皆さんを見渡して、心の中で拍手を贈った。
わたしのコンチェルトは、わたしたちのコンチェルトになった。
ショパンの2番は、テンポは一定でないし、ピアノに割り切れない音符が多く、オケは休符が多い。つまり合わせにくい。ショパンコンクールでも選ぶ人がたまにしかいない、実にクレイジーな作品だ。それを弾こうというわたしが狂気の発端だった。
オーケストラはそんなわたしの酔狂につきあい、完全燃焼で応えてくれた。それをまたピアニストが感じて熱くなるからこそ、コンチェルトは素晴らしい。熱狂と熱狂が掛け合わされ、さらなる熱狂が生み出されるのだ。
帰り際、わたしたちがこの曲を弾くのは今日が最後ではないことがわかった。
次回もショパン、弾くよね。
審査員の先生に言われたのだ。今度はもっともっと納得する形で演奏する。わたしはそう決意して熱狂の一日を終えたのだった。
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