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意識がなくなってもできることがある人間って、なんてすごいんだ


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記事:富田裕子(ライティング・ゼミ平日コース)
 
義妹がガンになった。
乳ガンだ。
 
義妹は29歳、新婚1年目、娘は6ヶ月前に生まれたばかり。
発見されたときは、すでに肝臓に転移しているステージ4だった。
 
ガンが発見されると、義妹は新居を引き払い、自分の夫と6ヶ月の娘を連れて実家に戻った。
 
闘病が始まった。
 
実家はパニックになった。
娘を嫁がせ、夫婦2人暮らしになっていた義父母。これからは、のんびり旅行でも、と考えていた矢先に、大病の娘の看病と6ヶ月の赤ちゃんの子育てが、突然ふりかかってきたのだ。
妹の兄家族、つまり私の一家は、夫の仕事の関係で東京在住。夫はともかく、私は幼い息子とともに福岡に戻って、看病の手伝いをしなければならないと、覚悟した。
が、義母の7人姉妹が交替で手伝うから、あなたは東京に留まってと言われた。
義妹の看病と6ヶ月の姪の子育ては、父母+7人のおばたちという、全員が還暦を過ぎたメンバーで担うことになった。
 
義妹のガンは肝臓に転移、米粒より小さなガンが無数に散らばっていた。
手術は不可能で、抗がん剤治療をしながらの自宅療養になった。
 
私は2ヶ月に一回、一週間程度福岡に戻り、月齢に応じた離乳食の作り方を高齢のおばたちにレクチャーしつつ、看病の手伝いをした。
 
義妹の闘病の様子をそばでみながら、私はある違和感を覚えていた。
 
大学時代、私はうちに遊びに来た先輩から「あなたの本棚には、生死に関わる本が多いね」と言われたことがある。
自分では気づかなかったのだが、そのころの私は、闘病記や障害に負けずに生きていくといった本をたくさん読んでいた。
そこには、病気やケガなどに負けず、ひたむきに生きる人々の姿が描かれていた。
 
ところが義妹は、泣くところは私には見せなかったものの、あからさまに不機嫌な態度をとる、義母たちにあたる、大泣きする娘の世話は年老いたおばたちに任せきりなど。
私から見れば、いつも投げやりとも取れる態度だった。
 
あれ、闘病ってこんななのか?
私が読んでいた本の主人公たちは、弱音を口にせず、周囲に配慮し、ひたむきに生きていた。
彼らと義妹とは、まるで違うのだ。
 
洗面台には、抗がん剤の副作用で抜けた大量の髪の毛がそのまま放置されていた。
それを片付ける義母をみて、
「いくら病気といっても自分の髪の毛を拾うくらいできるだろう、甘えすぎだ」と、心の中で憤っていた。
 
私なら、看病してくれる人にもっと感謝の気持ちを表すだろう。
私なら、娘にこう接し、こういったものを残すだろう。
大病をしたこともないくせに、私はそんなことを考えていた。
 
 
だが、本の世界ではない「リアル闘病」を間近にみるのが初めてだった私は、まったくわかっていなかったのだ。
 
 
一時は抗がん剤の効果で肝臓に散らばったガンはほとんどなくなり、このまま治ってしまうのではないかというくらいに、義妹は回復をみせた。
 
ところがまた少しずつ悪くなる。ガンは肝臓から骨に、次に脳に転移した。
本人の希望を尊重し、訪問診療をしてくださる医師の助けを借りながら、引き続きできるだけ自宅で看ることになった。
夫には可能な限り週末は、福岡に帰ってもらった。
 
闘病開始から1年4ヶ月、義妹の具合は急に悪くなる。
医師からは、今のうちに会いたい人に会わせるように、と言われていた。
彼女の友人や遠方の親戚が、次々に彼女を見舞った。
7月初め、もう、長くは持たないかもしれない、との連絡が実家から入った。
来週の七夕会までで、うちの息子の幼稚園も1学期が終わる。
それまでは大丈夫だと思うから、夏休みに入ったら帰ってきてくれと。
その週末は、夫だけ福岡に帰った。
 
翌月曜日、やはり具合が悪いとの連絡が入る。夫は福岡に留まったままだ。
すぐ幼稚園に息子を迎えに行き、万が一の用意を整え、最終の飛行機で福岡に帰った。
 
到着したとき、義妹はときどき目を開くものの、もう意識はない状態だった。
義父母、夫、おばたち、義妹の夫と代わる代わる声をかけ、額を冷やしているタオルを取り換え、手をさすった。
義妹の腕は点滴の跡が残っているものの、真っ白で、きめの細かい肌だった。元気な私なんかより、ずっと美しい肌だった。
 
翌朝、義妹は大きな息をひとつしたかと思うと、それ以降呼吸を止めた。
みんな、大声で呼びかけた。訪問診療の医師に連絡する。
そして駈けつけた医師により、義妹の死亡が確認された。
梅雨が開けたかと思うくらい、青々とした空が広がる朝だった。
 
 
夫とさまざまな手続きに走り回り、ひと段落ついたときに、一人のおばが話しかけてきた。
「みちこ(仮名)は、裕子さんが帰るのを待っとったんよ。
もし、裕子さんが帰ってくる前にみちこが亡くなってたら、裕子さんはきっと後悔したと思う。
みんなときちんとお別れして、だれも心残りを感じることがないようにして、みちこは逝った。
あんな、意識がないようになっても、できることがあるんやね。すごいね」
 
衝撃だった。
頭をぶん殴られたような衝撃だった。
 
私は何を勘違いしていたのだろう。
本の主人公のひたむきなところばかりをみて、勝手に「病人こうあるべき」像を作ってしまっていた。
 
父母にあたらざるを得ない状況なってしまった、義妹の悲しみ。
ドアの外から漏れてくる娘の泣き声を聞きながら、ベッドに横にならざるをえないもどかしさ。
娘のために生きないと、と思いつつ、どんどん悪くなる病状への絶望感。
投げやりに見えた行動の背後にある、健康な私には絶対理解することが不可能な、彼女の思い。
私は、それらの思いに寄り添おうとすることさえ、できなかった。
 
ただひとつ、わかったことがある。
泣き、叫び、苦しみ、きれいごとだけでは済まされない、それが人間なのだ。
そして人間、それでいいのだ。
それだけで十分、価値ある存在なのだ。
 
私の帰りを待っていてくれたんだね。
最期に会えて、本当によかった。
ありがとう。
 
 
義妹が亡くなったとき、1歳9か月だった姪は、今年15歳になった。
彼女が20歳になったときに、やろうと思っていることがある。
一つは彼女を誘って、一緒に乳がん検診を受けること。
二つ目は検診の帰りに食事でもしながら、あなたのママが、あなたと同じように美しい肌をしていたこと、そしてママから、私がどういったことを教わったのかということを、じっくり話そうと思っている。
 
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2018-10-03 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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