姉を亡くした僕が、「ありがとう」を結婚式や卒業式でいわない理由
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記事:西田博明(ライティング・ゼミ平日コース)
「おい、西田ァ、お前すぐ帰れ」
山小屋に戻ってドアを開けたら、奥からオヤジさんがでてきた。
昨日まで、「おまえ、もうちょっといろよ。人手足りてねえしさ。なんなら荷物隠して、帰れなくしてやろうか」なんて、冗談交じりに引き留められていたのに。
大学1年生の夏休み。
僕は富士山8合目の山小屋で、1ヵ月の、住み込みバイトをしていた。
携帯の電波が届かなかった。下界との連絡は、2‐3週間に1回、メールをやりとりするのが、限界だった。その日は偶然、1ヵ月のバイト期間の最終日で、翌日、東京の下宿に戻るつもりだった。
「さっきご両親から電話があってな。お姉さんのな、容体が変わったらしい。俺もよくわからんが、意識がないらしい。お前、あした朝メシくったら、すぐ出ろ。東京に戻らずに、その足で大阪に戻れ」
……よくわからなかった。
だって、手術はカンタンなもので、実際に成功したって連絡をもらっていたのに。
本人からも、「手術はうまくいったで、腫瘍のことな、シユウちゃんって名付けたわ(笑)」なんてメールを受け取っていたのに。
僕が富士山に向けて出発する少し前、姉が入院した。視力が急激にわるくなって、眼科にいったことがきっかけで、脳腫瘍が発覚。急いで手術をすることになっていた。
手術は、内視鏡を使った、簡単なものだった。カラダへのダメージも少ない、安心できるもので、まずは失敗はないと。だから僕も、ほっと安心して、予定通り、この住み込みのバイトに来ることにした。翌日下山したら、いったん東京の下宿に戻って、2-3日恋人とすごしてから、大阪に戻る予定だった。
その前に姉を見たのは、京都駅。東京で一人暮らしを始めるために、出発する日だった。家族一緒に見送りにきてくれて、ホームのうどん屋でうどんを食べた。座席に座って、窓の向こうの姉に、手を振ったのが、最後だった。
一晩寝て、みんなと別れて、下山。
登山靴に、大きなバックパックのままで、故郷である大阪に向かう新幹線に乗った。
地元の高槻駅に到着。
メールをチェックしてみたら、今ちょうど病院にいるとのこと。立派な松の木をながめる余裕もなく、病棟を探す。こんな泥だらけの、不潔な格好で、入れてくれるんだろうか……
やっと両親と病室をみつける。今は強い麻酔で眠っていること。意識はなくて、呼吸器につながれているという説明を受けた。
姉のいる部屋にはいる。
4か月ぶりに会うベッドの上の姉は……本人だと思えなかった。
呼吸器、あれた肌。目が開かないように、テープでとめられている。完全に表情が消えていて、姉らしさの、ひとかけらもなかった。僕の知っている姉の姿と、余りにも違いすぎた。本人だと思えなかった。
申し訳ないけれど、不気味な姿に、言葉がでてこなかった。
「ほら、ひろがかえってきたよ~」
と両親が話しかけて、言われて、なにか話しかけようとするけど、何を話していいのか、わからない。
ほんとうは、姉と、話したいことが、いっぱいあった。
ちゃんと自炊していること。意外と掃除も続いてること。英語の授業がとにかく大変なこと。合氣道部がとても楽しいこと。おもしろい仲間に出会ったこと。恋人ができたこと。でも一人暮らしは、やっぱり寂しいこと……
実感がもてないまま、病室をでた。「でも、このまままた回復して、あとで笑い話になるんだよね?」なんて思いながら。。
その日の夜。容体が急変した。
電話をうけて駆けつけた、集中治療室。心電図の音、心臓マッサージ、電気ショック、映画とかドラマみたいな光景だった。
どれだけ「頑張って!」とよびかけても、どれだけ電気ショックの電圧を上げても、心臓は、もう動かなかった。
深夜。最後に医師が時計を見て、死亡時刻を告げるのまで、ドラマそのままだった。
お葬式、姉の大学の友達が、駆けつけてきた。
大学では管弦楽団部に入ってバイオリンをやっていた姉は、じつはめちゃくちゃ愛されて、慕われていたらしい。びっくりするほどの友達がやってきて、みんな涙を流して姉の死を悼んでくれた。文集まで作ってくれた。同じ管弦楽団にいた姉の彼氏は素敵な人だった。
僕は僕で、できる限りのことをして、見送った。
父のお下がりのスーツを着て、みんなを迎え、寄せ書きをかいてもらった。紙の裏には、You are my sunshineの歌詞を書き込んで、棺桶に入れた。
いいお葬式だったんだろうと思う。
だけど……
どれだけ泣いても、何をやっても、心の中に、欠けたところがあった。
姉と僕とは、余り仲良くなかった。
いや、仲良くなりはじめたところだった。
3才年上の姉は、いつでも優等生で、僕はいつも比較されては、怒られていた。
賢い姉は、じょうずに、一番ジュースの入ったコップを自分のものにした。子どものころは体格も違って、ケンカしたって勝てない。
最初は泣いてばかりだったけど、僕は僕で、できる限りの反撃をした。自分の体力が姉に追いついたことに気づかず、蹴ったら泣かせちゃって、両親にこっぴどく怒られたりもした。僕のイヤミ攻撃がきつすぎて、姉は一時期、胃が痛くなっていたらしい。今から考えたら、僕のほうがひどいことをしていたんじゃないかと思う。
姉は、だけど、やさしい人でもあった。
僕が門限を破って、家にカギをかけられたとき、寒く無いようにと2階からセーターを落としてくれた。
勉強を教えてくれたこともあった。体力をつけようとランニングを始めたとき、自転車で一緒についてきてくれた。赤川次郎に、田中芳樹、夏目漱石。僕が小説を読むようになったのも、姉の影響だった。
僕が高校生、姉は大学生になったころから、少しずつ、関係がよくなってきた。少しずつ、共通の話題が見つかったり、真剣に語り合えたりできるようになってきたところだった。
だから、上京して初めての夏休み、姉に会うのが、めちゃくちゃ楽しみだった。
でも……
姉とは、一言も言葉を、交わせなかった。
話したいことが、いっぱいあった。
そして、もしも姉がいなくなるのなら、何よりも、
「ありがとう」と「ごめんね」をいっぱいいたかった。
「あの時は、ごめんね」といいたかった。
「僕の人生に、いてくれてありがとう」と、いいたかった。
その気持ちは、もうどこに届けることもできずに、僕の胸の中にある。
だからこそ僕は、もう、待ちたくない。
大切なことを伝えるために、結婚式のスピーチも、卒業式の手紙も待ちたくない。
誕生日も、記念日も、お別れの時も、待ちたくない。
大切なメッセージをこっそり温めて、時が来るのを待ったりなんて、しない。
「ありがとう」があったら、今すぐ、そういいたい。
「ごめんね」があったら、今すぐ、そういいたい。
「一緒にいれてよかった」と思ったら、今すぐ、そういいたい。
今すぐ、いえばいい。
ちょっと照れ臭いだけだから。
そして、大丈夫。
今すぐいったって、誕生日や結婚式のスピーチのネタは、なくならないから。
むしろ、お互いの心が近づいたり、今までと違う会話ができて、話したいことはもっと増えるから。
だから、今すぐいおう。
あなたの気持ちを、あなたの伝えたいことを、今すぐ。
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