僕と祖父との日々は灰色
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:岡筋耕平(ライティング・ゼミ 木曜コース)
「おじいちゃん、実は生きていているのよ」
その衝撃的な事実を知ったのは、祖母が亡くなり火葬場からの帰りの車の中だった。
「どういうこと?」
勿論、僕は母にそれが事実なのかどうか確認した。
そのとき、僕は19歳だった。
両親が共働きだったので、僕にとって祖母は育ての親のような存在だった。そして、僕は大のおばあちゃん子といて育った。
最愛の存在との別れの中の失意のどん底にいたときの出来事であった。
「おじいちゃんは奈良に住んでいて、画家として活動しているの」
母は続けてそう言った。
人が今まで生きてきた中で培った固定概念が崩れるときというのは、最初は何かの冗談じゃないかと思ってしまうものだ。
不謹慎なのかもしれないが、大災害が起きたときなどのニュース速報は一瞬、映画でも見ているのではないのかと思ったことのある人は僕一人ではないだろう。
19年間、僕には祖父はいないと思って生きてきた。小学校の頃など、正月が来ると当たり前に田舎のおじいちゃんにお年玉を貰っただとか、そんな会話が冬休み明けにクラス内で話題に上がっていたものだ。
物心ついたころから、おじいちゃんという存在を知らなかったので、僕に皆の言うおじいちゃんという人物がどういう存在なのか、自分におじいちゃんが何故いないのかを疑問に思ったこともなかった。
父の父親に当たる人は本当に何かの病気か、寿命で僕が生まれてからすぐに死んだと聞いていた。それはたぶん本当だ。
そもそも僕の生まれ故郷は兵庫県で父の実家は秋田県だったので、会っていたとしても1回か2回だっただろう。
一緒に住んでいた祖母は母の母親だった。よく言う嫁姑問題などは、旦那側の母親のことだから、僕の家はそれとは逆ということになる。それに対しても小さいころからそれが当然として育ってきたので何も疑問に思うことはなかった。
疑問に思わなかったのは、自分の母と祖母が実の親子であるにも関わらず別姓だったことも。
その環境の中で育ったので、そんなものなのだろうと疑問にも思わなかったし、世の中普通なのだと思っていた。
祖母は良く寝る前に、昔話を聞かせてくれた。戦争のこと、商売をやっていたこと、喫茶店を経営していた時に相撲取りがやってきてその大きさに驚いたなんていう話は、僕の寝る前の楽しみだった。
そんな祖母が、男の人の話になると、
「男の人なんてろくなものじゃない」
といつも口にしていたのだが、これも育ての親がそういうのだから世の中の男はろくなものじゃない酷い人達なのだなと思っていた。
自分も男なのだが。
祖母は女手一つで女姉妹2人を育て上げ、商売までしていた人だったからか、あっけらかんとした性格で、
「死ぬときは海に骨を投げ捨ててくれたらいいのよ、あっはっは」
という言葉通りに、ある日の脳卒中で倒れ、その三日後に天国へと旅立った。
その後、祖父がいたという事実を知ることになる。しかも生きていて家族までいるらしい。
祖母と祖父は離婚していた。
理由はわからないが、ある日祖母と子供たち2人を置いて、祖父は家を出ていった。
祖父は心臓病を僅らっていたみたいだが、本当かどうかは分からない。だっておばあちゃんより10年以上も長く生きたのだから。
離婚後、祖母は生活と2人と子供を育てるために商売を始めたらしい。最初は本屋さんをやっていたみたいだが上手くいかず、その後喫茶店を経営し、それでなんとか生計を立てていたそうだ。
母はそのことをあまり口には出さないが、当時の日本で離婚している親の子だということに世間は冷ややかな目を向けられたという。母の苦労話は、今の何不自由ない日本の社会では想像もつかない。子供のころよく聞かされたのは、チョコレートが変えなくて、包んでいる銀紙の匂いを嗅いでその気分に浸っていたとか。
当時の日本の景気はあまりよくなかったこともあるけれど、多分周りの家よりも貧乏だったことには間違いない。
母は驚異的な努力と国からの助成金により教育者になった。
母はあるとき姉から自分の父が画家として個展を開いていることを聞いたらしい。子供のころから数十年間、母も自分の父とは音信不通状態だったようだ。
新聞記事でその個展のスケジュールを調べ、母は生き別れた父に会いに行った。
しかし、ドラマや映画のような感動の再会などどこにもなく、祖父は自分の子供と再会しても最初誰だか分からなかったらしい。
祖父は僕の祖母と離婚してから、再婚してその間に子供もできて新たな家庭を築いていた。
祖母が死んで、母からその話を聞いてから数か月後、祖父に会いに行くことになった。
小さい子頃からおばあちゃん子だった僕にとって、どんな理由があるにせよ捨てて他の女と出来てしまった男に、どんな顔をして会えばいいのだろうか。行きの車の中でそんなことを考えていたことを覚えている。
「いらっしゃい」
祖父と生まれて初めて会ったとき、そこには奥さんと子供夫婦が出迎えてくれた。大人になってから、他人だけど血はつながっているという、なんとも気まずい再会となった。
祖父の家は三階建てで、その三階はアトリエとなっていて画家の家そのものだった。画家として売れるまでには祖父も苦労をしたらしい。
実際に祖父と会うまでは最愛の祖母を捨てた男に憎しみの塊のような黒い感情があったが、実際に会ってみるとやはり血のつながりがあるからか、親近感を覚えたし、しかも僕は祖父似だった。
僕はおばあちゃん子だったから未だに祖父を許せない気持ちもあるけれど、そこには多分色々な事情もあったのだろう。
祖父の家を去る帰りの車の中で、僕は確かに行きの車の中で抱いていた黒い感情は大分和らいでいた。
黒い絵の具に白をいくら混ぜても完全な白色にはならない。だけど、灰色だって中々良い色じゃないか。
祖母と祖父の間に何があったのかは結局わからない。そんなことはどうでもいいのかもしれない。
ただ言えることは、それでも負けずに祖母と母が僕を育ててくれたお陰で僕がこの世に存在するということだ。
知らない事実を知るということは、別に大した意味なんてないのかもしれない。
白か黒かなんて、誰にも分らないのだから。
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