飛び去った蝶のあとに残った、私の金の輪
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記事:ほしらむたふ(ライティング・ゼミ日曜日コース)
『西遊記』の主要登場人物の一人、孫悟空の頭には金の輪がはめられている。ともに天竺を目指す師匠、三蔵法師によって装着されたもので、物語には、荒くれ者で利かん気の強い孫悟空が何か悪事を働くと、三蔵法師が呪文を唱えて金の輪――すなわち悟空の頭をグイグイ締め付け、懲らしめる場面が何度も出てくる。そしてそのたび、孫悟空は痛みから逃れようと、正しい行動を心がけるのだ。
私の頭に金の輪はない。その代わりと言っては何だが、ちょうど首の付け根のあたりに、10センチメートルぐらいの長さの首輪のような曲線がうっすらと見える。手術痕である。
13年前の夏、私は派遣先で企業PR誌の立ち上げをまかされ、いつも以上に張り切っていた。正社員と同じ時間に出社し、正社員よりも遅く帰宅する毎日。ない知恵を絞って企画会議に臨み、クライアントとプロダクションの間に立って、物事がスムーズに進むように気を配った。予算を気にし、許される限り取材先にも同行した。長年2、3人のユニットで動いてきた私は、10人近いチームで進める仕事に慣れておらず、戸惑いながらも方向性を調整し、意見を戦わせ、ミスをして頭を下げ、完成にこぎつけて喜びを分かち合った。
きっとその間、アドレナリンやドーパミン、アセチルコリンといった脳内物質が大量に分泌されていたに違いない。毎晩の眠りは浅く体力的にかなり無理をしていたし、納期や折衝、その他のプレッシャーで精神的に張り詰めてもいた。自分からやりたいと手を挙げた仕事で泣き言は言えず、うまく人も頼れず、ただただ自分が何とかしなければいけないと異常なまでの責任感に突き動かされて働いていた。仕事を楽しんではいたが、今思えば少し狂っていたのだと思う。キャパオーバーで悲鳴を上げ続ける自分の体や心の声をキャッチできなくなっていた。何とか多忙な時期を乗り越え、ようやく一息ついたある日、甲状腺乳頭がんの告知を受けた。
健康診断の触診で甲状腺のしこりが気になると言われ、再検査で診断が確定した。乳頭がんは進行が極めて遅く、手術して甲状腺を全部摘出すれば転移も防ぐことができ、再発率も非常に低いので悲観することはないと専門医は言う。説明を受けながら頭は冷静で落ち着いていたが、体全体がぼーっと熱を帯びていくのを感じていた。
帰宅後、医療系のウェブサイトで甲状腺について調べてみる。それまで一度も意識したことがなく、数カ月後には私の中から消えてしまうこの臓器は、喉仏のすぐ下に位置していて、左右に羽根を広げた蝶のような形をしているらしい。全身の新陳代謝や成長の促進にかかわる甲状腺ホルモンを分泌していて、このホルモンがなくなると、人は1、2カ月しか生きられないとも記されていた。それほど重要な部位でありながら、腫瘍ができていても自覚症状がほとんどないことが多いらしい。
私も自分の体の変調にまったく気づいていなかった。痛くも痒くもない。思い当たることがあったとすれば、何年かぶりに体重が減って密かに喜んでいたことと、やや疲れ気味だったということぐらいで、それも多忙な夏の影響だと思っていた。
告知から3カ月後、休職を決めて入院し、手術を受けた。全身麻酔からさめた私を待っていたのは、経験したことがない類いの痛みで、自分をないがしろにしていたことを本気で後悔した。摘出され、銀色のトレイに載せられた私の甲状腺は、本当に蝶のようだった。
体内から蝶が飛び去ったあと、首元に残った赤いミミズ腫れの輪は、最初、動くたびに引きつれ、鋭い痛みをもたらしたが、執刀医の腕が良かったこともあるのだろう、時とともに痛みもやわらぎ、見た目も首のしわと見分けがつかないほど薄くなっていった。そして同じ年の冬、体の一部を失ったまま安定しない派遣社員を続けていくことに不安を覚えた私は、正社員として現職同様、制作に携わることのできる別の会社に移った。
新しい職場はスタッフの入れ替わりが激しく、入社後半年も絶たぬうちに1冊の書籍を任されることになった。実質3人で数百ページの美術書を制作することになり、再び激務の日々が始まった。何としてでも期日までに仕上げなければ。前よりも良いものを作らなければ。この私が! またもや変な責任感のスイッチが入る。心身ともに無理を重ねる。
そんなことを繰り返して今に至るが、ありがたいことに、あれ以来大きな病気はしていない。少しでも無理が続くと、首元の輪のあたりが締め付けられ、苦しくなるのだ。集中力が途切れ、はっと我に返る。
危ない、危ない。またやるところだった。
主治医は、存在しない甲状腺に感覚はなく、引きつれは気のせいだろうと言うが、そうは思わない。私の中の三蔵法師が金の輪をグイグイ締め付けて、私の中の孫悟空の行き過ぎた行いを戒めてくれているのだと、密かに信じている。
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