弁慶ゆく
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記事:小川真義(ライティング・ゼミ 平日コース)
東京の大雪警報はいつも大げさだ。仕事を早く切り上げ、中野駅を降りると、かすかに雪が降っていた。2年前に47歳の若さで天国に旅立たれた恩師M先生のお宅に線香を手向けにゆくに日だった。静かに降り始めた雪が車の音をかき消していた。土曜日のせいか車の数も少ない。
先生に出会ったのは、25年前。できの悪い中学2年の私は、高校受験のために家庭教師をお願いしていた。先生は東京大学の3年生、少林寺拳法部の主将を務める大男であった。私も小学校の頃より、弱い体とメンタルを鍛えるために父に入門させられた、砂場の砂も怖くて触れない子どもだったらしい。性に合ったのか辞めることはなかった。かたや、先生は大学入学後はじめたとは思えない素質とたゆまぬ努力で関東大会、全日本大会でも連戦連勝の猛者であった。大学の監督は、先生を「20年に一度の逸材」と評していたらしい。
M先生の第一印象は「東大から来た弁慶」そのものであった。体の小さい私は、180センチを優に超え、迫力満点の大男をいつも憧れの眼差しで見上げていた。その大きな体と鋭い眼光とは裏腹に、先生の言葉はいつも優しく穏やかだった。気は優しくて力持ち、まさに、現自分にとっての弁慶像だった。
週1回 2時間の授業が終わると、近くの蕎麦屋に出前を頼むのだが、先生はいつも「天丼。大盛りで・・・」と恥ずかしそうにつぶやくのが印象的だった。
一年間の先生の指導の甲斐があり、なんとか希望の高校に入学して、週に一度の授業は終わった。風の噂で、先生は大学を卒業なさり、メガバンクに入行なさったと聞く程度だった。後から聞いたはなしだが、入行後にはハーバード大学に留学していたらしい。将来を嘱望される銀行マンだったのだろう。
あれから20数年、私は日々の忙しさから、すっかり練習から遠ざかっていたが、ふとまた体を動かしたくなった。地元の通い慣れていた道場でM先生と再会することになる。大学卒業から町の道場に籍を移され、指導主任として後輩の指導にあたっておられた。20年で色々な経験をして、自称「ソコソコの大人」になった自分も、先生の前ではあっという間に中学の時の生徒に戻っていた。強く大きな先生は健在だった。
再会から2年、先生に下された診断は、膵臓癌であった。
癌発見の後も、頻繁ではないにしても後輩の指導のために顔を出されていた。白い道着に黒帯が似合う先生であったが、患われてからはいつもパーカー姿だった。抗がん剤で、髪の毛が減っていく姿を後輩たちに見せたくなかったのであろう。いつも、パーカーの帽子を深くかぶっていた。がん発見後1年で先生は天国へと旅立っていった。亡くなる直前まで、勇ましく大きく頼もしい背中を見せてくれた。
中野のマンションのリビングで、額に入った道着姿のM先生は静かに笑っていた。線香を手向けようと線香立てにさそうと思ったが、刺さらない。灰がいっぱいで刺さらなくなっていた。たくさんの方が線香を手向けに来たのであろう。たくさんの人を惹きつけてやまない先生の魅力は亡くなってからも伺い知ることができた。
「背中を見せる」「強いからこそ優しい」先生の姿は、今もこれからも、自分を力強く勇気付けてくださる。”強く、優しく、正しく、そして弱いところを人に見せない”。あんな男に自分もなりたい……。
いくら追いつこうとしても追いつけない背中を追い続ける修行は、いま始まったばかりである。
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