アラサーの私とピアノと「展覧会の絵」
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記事:獅子崎 りさ(ライティング・ゼミGW特講)
年齢を重ねると、今さら何かを始めるにはもう遅い、と感じることがある。
一方で、何かを始めるのに遅すぎることはない、ということもよく言われる。
私はどちらかというと、今さら何かを始めるにはもう遅い、と考える人間だった。いや、そもそも始めたいと思う「何か」がなかったのだ。
30歳をすぎた頃の私は、始めたい、やってみたいと思う「何か」を特に探そうとするわけでもなく、ただ自宅と会社を往復する毎日を送っていた。
そんな私が「何か」を見つけたのは、ほんのちょっとしたきっかけで、それはある日突然やって来たのだ。
「展覧会の絵」という曲をご存じだろうか。
ロシアの作曲家ムソルグスキーの作ったピアノ曲である。
約30分にもわたるこの曲を私が初めて聴いたのは20代前半のことだった。リヒテルというピアニストが演奏したCDをたまたま手に取ったのだ。
リヒテルの演奏を聴いて、私はたちまち「展覧会の絵」という曲に魅了された。
展覧会で展示されている様々な絵を眺めているという情景を描いた「展覧会の絵」は、その名のとおりひとつひとつの絵画をイメージした色々な雰囲気の曲の連続だった。
重々しい。
楽しげ。
謎にみちている。
「いったいどんな絵が展示されているのだろう」と、こちらの想像力が刺激されるのだ。リヒテルの情熱的な演奏が、想像力をよりかきたてた。
この「展覧会の絵」という曲が好きだと、ある時私は行きつけのバーのマスターに語っていた。
するとマスターが言ったのだ。
「そこに『展覧会の絵』の楽譜があるから、弾いてみたら?」
弾く?私が?「展覧会の絵」を?
ピアノを習ったことなどなく、今まで自分で何か曲を弾くなど考えたこともなかった。それなのにさらりと「弾いてみたら」と言ってのけたマスターの言葉に、私は一瞬混乱した。
そのバーには確かにピアノが置いてあった。
そして楽譜があるという。
何より他に客もいなかった。
弾くなら、今しかない。
私はピアノのふたを開け、椅子に座り、楽譜を開いた。
楽譜を見て少し安堵した。
「展覧会の絵」は複雑な曲だったが、出だしの部分は音の重なりがなく、音符一つで構成されたシンプルなものなのだ。
これなら、指ひとつで弾ける。
学校の音楽の授業で習った多少の知識を頼りに、私は楽譜を読んだ。
そして、私は鍵盤に右手を置き、たどたどしく鍵盤を押した。
ソ……ファ……シ……ドファレ……ドファレ……シ……ド……ソ……ファ……。
私の指から「展覧会の絵」のメロディが流れ出た瞬間だった。
強烈な感覚だった。
私が、あの大好きな「展覧会の絵」を弾いている!
右手の指ひとつで、たったのワンフレーズだけであったが、私がピアノに夢中になるには十分だった。
それからというもの、そのバーで客がいない時を見計らっては、「展覧会の絵」のメロディを弾かせてもらった。
同じ部分をただ繰り返し弾いているだけだったが、楽しかった。
子どもが新しいおもちゃを手に入れて夢中になって遊ぶ感覚を、アラサーの私は久しぶりに感じていたのだ。
私が電子ピアノを購入するまで、そう時間はかからなかった。
たまに行くバーで数分弾く程度では、もう満足できなくなっていたのだ。
大人向けのピアノの練習本がいくつも販売されていることもその頃知った。
練習本を購入し、私はピアノの練習を始めた。
最初は右手と左手の指を別々に動かすことさえできなかった。
それでも自分なりに練習本をひととおりすませたところで、私は「大人の音楽教室」と看板をかかげたピアノ教室に足を運んだ。
本だけでは物足りない、もっと上手になりたい。その気持ちが、私をつき動かしていた。
ピアノ教室の生徒になった私は、練習にはげんだ。
仕事を終えて家に帰り、電子ピアノの前に座る時間が一日の楽しみになった。
ピアノ教室に通い始めて数か月たった時、先生が言った。
「次の発表会、出てみません?」
ピアノの発表会!
ついに来た。ピアノを習っていればそれとセットになる定番のイベントである。
これに出ないという手はない。
私はすぐに参加申込書に名前を書いた。
それからは発表会の曲を必死に練習した。
いや、必死といっても時間は限られていた。平日のわずかな時間、そして予定のない休日。
それでも、約3分間の演奏曲をどうにか覚えた。
そして、初めてのピアノ発表会である。
あれほど緊張したことがあっただろうか。
いや、大人になってからあんな緊張は感じたことはなかった。
仕事で課長を相手に報告をする時に感じる緊張感とはまた次元が違ったのだ。
体は震え、手は冷たくなり、指の感覚が無くなっていた。
演奏を始めても、腕も指もまるで自分の物ではないかのようで、いったい自分が何を弾いているのかわけがわからなくなってしまった。
それでも、私は必死に約3分間の演奏を終えた。
初めてのピアノ発表会を終えたのだ。
今も私はピアノを続けている。
あのピアノ発表会の緊張を乗り越えたという体験が忘れられないのだ。
初めて弾いた「展覧会の絵」の音が忘れられないのだ。
そして、いつかやって来るピアノ歴10年、ピアノ歴20年の私に出会う日を楽しみに待っている。
何かを始めるのに、遅すぎるということはない。
ピアノの上でつたなく動く自分の指を眺めながら、私はその言葉を思い出すのだった。
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