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8月6日に思うこと


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記事:浅倉史歩(ライティング・ゼミ夏休み集中コース)
 
 

「この電車は被爆電車です」
 
 
乗車した路面電車の車内看板に目を奪われた。
大学3回生の夏のことだった。
 
 
その時私は広島にいた。
夏休みを利用しての帰省だが、帰省と言っても私の育った街ではない。
その時父の勤務地が広島だったため、知り合いも友達もいないその地を「仕方なく訪れている」という状況だった。
文字通り縁もゆかりもない街だった。
 
 
この日、私も市街地に出かけようと最寄りの電停で電車待ちをしていた。
目の前に来た車両は、耳を覆いたくような不快なブレーキ音を立ててとまった。
 
 
広島の路面電車の車両には、京都や大阪で使われていたものを引き取ったケースも多々あり、だからそもそもが「新しい」「きれい」というのは少ないのだが、その中でもこの車体の古さは、ブレーキ音のみならず、全体の塗装から見ても容易に想像できた。
 
 
「今日の電車、ボロ! ハズレやな……」と思いながら乗り込んだその車両は、やっぱり古かった。
木の窓枠、車体の床も木製。
しかも窓枠は傷だらけで、木製の床も傾いていて、シートこそ張り替えられているが、乗り心地のよさは期待できそうにない。
 
 
そんな私の目の前に現れたのが例の案内板だったのである。
 
 
昭和20年8月6日も通常通り運航していたところに被爆した。
廃墟と化した街にあって、その3日後には運転を再開し、街の復興に大いに貢献した」
というようなことが紹介されていた。
 
 
一瞬にして、原爆資料館で見たあの地獄絵図がよみがえった。
被爆後、壊滅状態の広島、線路だって爆破されてしまっていただろう。
 
 
瓦礫と死体で埋め尽くされた街を、どうやって運転再開したのだろう。
そもそも、復興させた人たちも被爆者であり、傷を負っていたことは想像に難くない。
 
 
この路面電車は、原爆投下直後から終戦を経て、高度成長期、そしてバブルと言われるその日まで、広島の街を作り上げてきた立役者だったのだ。
きっと広島の人たちはそのことを知っている。
何も知らないのは、よそ者の私だけ。
その私が、ボロいだのハズレだの、心の中でとはいえとんでもない毒を吐いていた。
それは広島の街そのものを、復旧に携わってきたすべての人たちを、生き抜いてきた多くの人たちを侮辱していることに他ならなかった。
あまりに恥ずかしくて、情けなくて、電車を降りたくなった。
 
 
そんな中、翌月から私はアルバイトをはじめ、バイト先にはその路面電車で通うことになった。
8月6日朝、走行中の電車が止まった。
信号は赤でもない、車が割り込んできたわけでもない。
 
 
車内に、「広島に原爆が投下された時刻です。一分間の黙とうをささげます」と放送が入った。
これも私が知らなかっただけで、毎年行われているとのことだった。
 
 
バイト先はバイト先で、「自宅で家族とともに平和を大切にする時間を過ごしてください」と午後から休みになった。
広島市内の学校は、この日が平和登校日になっていることもこの時に知った。
広島の街の平和への意識の高さが思い知らされた一日だった。
 
 
そういえばだ、祖父は当時の広島師範学校を卒業している。
本当はもう一つ上の学校(今でいう大学院)に進学したかったが、家庭の事情もあり、地元に戻り教員になった。
「もし進学して、研究職にでもいたら、どうなっていたかねぇ……」というのを聞いたことがある。
戦争のことをあまり語りたがらない祖父の言葉だった。
 
 
そして祖母も広島市内の女学校を卒業している。
卒業後はやはり地元に戻り、花嫁修業をしたのち、祖父と結婚した。
「女学校時代のお友達の多くは、原爆で亡くなってしまってね…… 本当はおばあちゃんもそのまま広島で花嫁修業という話も出てたんよー」という祖母の顔は、今まで見たことがない、ただ単に「悲しそうな顔」という表現では表せないような表情だった。
それ以上多くは語らないままに亡くなって、今年で14年目になる。
 
 
そう、広島という街は、私にとって縁もゆかりもない街じゃなかったのだ。
 
 
祖父が上の学校に進学していたら、祖母が広島で花嫁修業をしていたら……
2人とも、生きていたとう保証はどこにもない。
それはつまり、「今この世に私は誕生していなかったかもしれない」ということになる。
 
 
そんな祖父母を持つ私がほんの一時とはいえ、広島に住むことになったことを、単なる運命、「父の転勤で…」と一言で片づけるには軽すぎる。
奇跡のような縁のもとで生まれてきたのだ。
そう思ったとき、生まれてきたことへの感謝の思いが、自然とあふれてきた。
 
 
毎年8月6日になると、この夏のことを思い出す。
あれから自分が、平和な世界へどう貢献したか語れるものは何もない。
それでもあの夏以降、8月6日は毎年黙とうをささげることにしている。
テレビ中継される慰霊祭に合わせて、8:15に一人で黙とうをささげている。
あの日の不謹慎な自分への懺悔の気持ちも込めて。
 
 
私にとって8月6日は、お誕生日と同じくらい大切な日。
生まれてきたこと、生きていることへの感謝を意識させてくれる日。
そこに導いてくれたのは、あの一台の被爆電車だった。

 
 
 
 
 
 

***

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2019-08-17 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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