パリに住む日本の父ちゃんに癒やされて眠る夜《週刊READING LIFE Vol,90 この作家がおもしろい》
記事:武田かおる(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
「 おやすみ、日本 とんとんとん」
これは作家、辻仁成さんのツイッターで、最後によく書かれている言葉だ。
これを初めて見た時、涙が溢れた。
幼少期、私が3歳のときに弟が生まれたのだが、それまで父と母と川の字になって寝ていた。ある日、夜怖い夢を見て私が泣いていたときに、父が背中を軽く「とんとんとん」たたいて慰めてくれた。そうしたら、すっと安心感に包まれて、また知らないうちに眠りに落ちた。この「とんとんとん」は、ほこりまみれになって記憶の奥底に押しつぶされていたその父との瞬間に私を連れて行った。
あくまで、私の推測だが、この「とんとんとん」は近年海外から日本に入ってきた「ハグ」とは全く別物だろう。私が思うに、背中を軽く優しくたたく、諭すような感じのあの昔から日本にある「とんとんとん」ではないだろうか。
私は14年前に高齢で長男を出産し、慣れない育児に疲弊していた時期があった。おむつを変えてもおっぱいをあげても泣き止まない息子にお手上げ状態だった時、母が代わりに息子を抱っこしてくれたことがあった。母は体をゆりかごのようにゆすりながら、息子の背中を絶妙なリズムでとんとんとんと軽く叩いた。すると、今まで何をやっても泣き止まなかった息子が不思議にぴたりと泣き止んだ。
そう、この辻さんの「とんとんとん」は、理屈なしに安心感を与えてくれる魔法のなのだ。
だから、初めてこの言葉を見たときに、無意識に毎日頑張っていた自分の中に張りつめてた緊張の糸が切れたように、涙が出てきたのだと思う。辻さんに「とにかくもう安心して寝なさい」と言われているような気がして、不思議にも文字を見ただけで、背中に「とんとんとん」としてもらっているような波動が届いた。そして、私は温かい涙を流しながら深い眠りに落ちたのだ。
私が辻仁成さんを知ったきっかけは高校時代に遡る。クラスの音楽に詳しい男子が当時、他のどんなバンドよりも良いと勧めてくれたのが、ECHOES(エコーズ)で、そのECHOESのボーカルをしていたのが辻仁成さんだった。
当時、多くのバンドが存在する中、あまり聞いたことのないバンド名だった。だが、辻さんの少しハスキーな歌声と非常にピュアな歌詞を聞いて、一気にその音楽の世界観に引き込まれていった。特に歌詞については、こんなに心が透明な人がいるんだなと当時感じたことを今でも鮮明に覚えている。
その後、1989年、『ピアニシモ』ですばる文学大賞を受賞し、辻さんは作家としてデビューする。私の中では辻さんはECHOESのボーカルで、ミュージシャンの印象が強すぎて、辻さんの文学作品を読む機会がなかったのだが、「この方は、ミュージシャンのみならず、アーティストだったんだ」とその時に実感した。
その後、ある時友人の薦めで辻さんの作品『冷静と情熱のあいだ Blu』を読んだ。その後も数多くの作品を残され、また映画監督としても勢力的に活躍されていたのだが、実際に本を読んだり映画を見る機会に恵まれず、辻さんの作品に触れることのないまま月日が経った。
ある日、ふとECHOESの歌を聴きたくなり、辻さんについて検索しているときに辻さんのツイッターが目に止まった。そこで、見たのが冒頭の「 おやすみ、日本 とんとんとん」だった。辻さんは現在パリ在住で、16歳になる息子さんと2人暮らしをされているそうだ。ツイッターにもよくアップされているウェブマガジンDesign Storiesのサイトを主宰されている。
私の中で作家やアーティストの方々は、私生活が神秘的な方が多い印象だが、辻さんは、Design Storiesの記事の中で、パリでの生活での様子とともに息子さんとの関係を飾り気なしに綴られている。私はアメリカ在住で、ティーンネイジャーの息子がいるため、住むところは違うが、海外での子育てという面でも辻さんの記事には共感する部分や勉強になる部分があり、いちいち記事を読むたびに「あるある」「うんうん」とうなずきながら拝読している。
サイトの中のジャンルは多彩で、辻さん作の子供向け絵本、小説、インタビュー記事などもある。
また、『パリの息子めし』というレシピ本も出版されているほど、料理が得意な辻さんだが、YOUTUBEでも料理の動画をアップされている。動画は息子さんとの共同制作ということだ。動画を見ていると、本当に料理が好きというのが伝わってくる。キッチンや食器のセンスも素敵で手際が良い。また、料理が苦手な私でもできそうな、シンプルな工程のレシピが多くて、作ってみたくなる料理ばかりだ。年上の男性に向かってこんな事を言うのは失礼に当たるかも知れないのだが、辻さんが料理をされている動画での様子がとてもチャーミングなのだ。
以前は、私にとって、ずっと遠い存在だった辻仁成さん。しかし、息子さんと真正面から向き合って、失敗談なども包み隠さずポジティブに描かれていること、自分のことを「父ちゃん」と読んでいることや、お料理が本当に好きなんだなあと分かる動画を見るにつれて、次第に私は辻さんに親近感を抱くようになった。また、あくまでも一方的で面識も一切ないのだが、私にとって、辻さんはパリに住む尊敬できる先輩のパパ友のような存在になっていった。
また、世界中がコロナ渦の今、パリでの様子も発信されている。それだけではなく、東京都で感染が拡大している中で、特に感染者が多く出ていると言われている新宿歌舞伎町のホストクラブ経営者へのインタビューされた記事が掲載されていた。メディアで語られていない部分に焦点を当て、真実を知ることができた非常に興味深い内容だった。このように、海外に住む私は、最近辻さんの記事を通じて、日本やヨーロッパののことを知るようになった。ウェブマガジンDesign Storiesは私にとって情報のハブ・ステーションになっていった。
今年の7月19日、いつものように寝る前に辻さんのツイッターをチェックした。その日は、いつもの最後の文言、「おやすみ 日本、とんとんとん」が普段と違っていた。その日はこうだった。
「今はゆっくりしてなさい
身体をまずやすめなさい
水を一杯飲みなさい
よしよし、落ち着きなさい
ちょっと目を閉じてみなさい
深呼吸しなさい
考えるの一度やめなさい
自分を少しいたわりなさい
死にたいと呟いてもいいから、生きなさい
今は眠りなさい
おやすみ、日本 よく生きました
とんとんとん」
私は何かあったのだろうかと思いながらも、また泣きながら眠りについた。「死にたいと呟いてもいいから生きなさい」と辻さんが言ってくれたことでなんだか安心したからだ。
その翌日、ウェブマガジンDesign Storiesに『死にたいと思ってもいいから、生きなさい』という記事がアップされていた。誰かが亡くなられたのかなと思っていたところ、別の知人のSNSで三浦春馬さんが死去されたと事を知る。辻さんのその記事には名前こそなかったけれど、自分で命を絶った人に対する思いが綴られていた。
私は十数年前、ずっと日本で続けてきた仕事を辞めて、夫と2歳の息子と一緒にアメリカに移住した。渡米当時、知り合いもおらず、夫も仕事で不在な時間が多く、未だ言葉もまだまともに話せない息子と2人だけの孤独な時間が続いていた。私は一人でも結構平気な性格だが、流石にそんな生活が半年以上それが続くと、精神的に鬱々してきた。日本語で大人の会話ができないということ、また人間というものは社会生活がないと精神的に不健康になってしまうのだと身を持って経験した時期だった。そうして、渡米して初めての冬を迎え、大雪や氷点下を切る日が続き、外に出ることも思うようにできない中で、自分の中に次第にストレスを溜めていった。さらに、リーマンショックの影響で夫の仕事も不安定な状態だったし、我が州での託児所の費用は日本に比べると飛び上がるほど高額で、気軽に子供を預けて私が仕事に出ることもできず、いろいろな面でアメリカでの生活に希望が持てなくなってしまっていた。
その結果、悲観的になり些細なことで夫婦げんかが勃発した。今思えば、軽い鬱のような状態だったのかも知れない。ある日、夫婦喧嘩はエスカレートしていき、私は「死にたい」とぼそっと呟いた。もちろん、子供に対しての責任もあるし、本当に行動に移すほどの勇気はなかった。ただ、それぐらい気持ちが追い詰められて、人生に対して悲観的だったのは確かだ。夫はとっさに精神的に不安定な私を息子と2人きりにしておくのは危険だと感じたようだった。仕事を休めなかった夫はすぐに義理の姉に連絡を取り、義理の姉が家にやってきた。義理の姉が私と息子を見張りに来たのだ。その日、義理の姉は一日会社を休み、一緒に何をするというわけではなく、私と息子のそばにいた。翌日義理の姉は私に心理カウンセラーを探し、会うように手配した。渋々私はカウンセラーと会うようになり、同時期に日本人の方々と知り合う機会ができて、徐々にアメリカで社会というものに参加するようになり、気持ちも落ち着いていった。
後にアメリカでは心理分析のカウンセリングを受けたり、セラピストと会うことは日本よりも一般的で、特別なことではないということもわかってきた。あの時は、みんなを巻き込んんだ申し訳無さや、見張られている、あるいは体が元気なのに付き添われていることに対して複雑な気持ちだったが、今では夫や義理の姉が対応してくれて、気持ちを持ち直せたことに感謝している。風邪は引きかけが大事というが、アメリカでは心の病気も同じで、早め早めに専門家に会い対処することが特別なことではないと理解できた。ただ、やはり、それ以降、「死にたい」という事を言葉にするのは子供に対しても良い影響はないし、みんなに迷惑を掛けるし、心の中で思うことも不健康だからとそれ以来自分に言い聞かせて、自分の中で排除していた言葉だった。
記事にも記されているが、辻さんご自身も死にたいと思ったことがあるという。そんなときにタイトルに書かれているように、『死にたいと思ってもいいから、生きなさい』とご自身に呟くようにされているそうだ。
だから、初めてその言葉を聞いた時、生きるということを前提に、「死にたい」と言葉や思いにしてもいいと、抑制しなくていいんだと思えただけで、なんだか肩の荷が降り、気持ちが楽になり、涙がでてきたんじゃないかと自分の気持ちを分析した。誰もがこういうことを思うものなのかわからない。ただ、日本の若者の自殺者数は多いことも聞いている。また、いくつかのインターネットのニュースサイトでもこの記事のことが紹介されていたので、人生に希望が持てなかったり、悩みを打ち明けられず自分の中に閉じ込めて気持ちが追い詰められている人がいたら、辻さんのその記事やツイッターを見て救われた人は多いのではないだろうかと思った。
こんな風に、ウェブマガジンDesign Storiesでは、辻さんは人生に対しての考えや、逆境時の気持ちの持ち方なども率直に綴られていて、生死に対しても読者に今一度考えさせてくれる機会を与えてくれる。
子育て、料理を手を抜かずにきっちりこなされて、ときに失敗談なども笑いにしながら日記に綴られているの毎日楽しみにしているのだが、人生に真摯に向き合い、思いをシェアして、私達に生きることへのアドバイスをくださる辻さんは、ご自身のツイッターのプロフィールにも書かれているが、日本のみんなにとっての「パリ在住の日本の父ちゃん」なのだと実感した。
私は最近反抗期の息子に手を焼いていたが、こうやって息子を通じて辻さんの記事に出会い、共感させてもらえるということは、ある意味、息子の存在のおかげかなと最新の辻さんの記事、「天罰が下った夜、ブルース・ウイルスに救われる」を読んで考えた。
さあ、今日も一日子供の送り迎えや家事、この記事の制作で一日頑張ったので、そろそろ寝る準備をしよう。そして、ベッドで辻さんのツイッターを見よう。
「おやすみ、日本
よく生きましたね
とんとんとん」
ツイートを見た瞬間に、肩の力が抜けた。今日一日頑張った自分を受け入れたら、やはり自然反応で涙が滲んだ。そうして安心した私は今日も眠りに落ちた。
□ライターズプロフィール
武田かおる(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
アメリカ在住。
日本を離れてから、母国語である日本語の表現の美しさや面白さを再認識する。その母国語をキープするために2019年8月から天狼院書店のライティング・ゼミに参加。同年12月より引き続きライターズ倶楽部にて書くことを学んでいる。
『ただ生きるという愛情表現』、『夢を語り続ける時、その先にあるもの』、2作品で天狼院メディアグランプリ1位を獲得する。
この記事は、「ライティング・ゼミ」を受講したスタッフが書いてます。 ライティング・ゼミにご参加いただくと記事を投稿いただき、編集部のフィードバックが得られます。チェックをし、Web天狼院書店に掲載レベルを満たしている場合は、Web天狼院書店にアップされます。
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