週刊READING LIFE vol.90

もう、死神には戻らない《週刊READING LIFE Vol,90 今、この作家が面白い》


記事:竹下 優(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
「私は死神か!」
冷蔵庫を開け、思わず呟きました。
野菜室には、黒くてドロっとした球がひとつ。
確か、1週間ほど前に買い求めたレタスだったと記憶しています。
 
レタスひとつ、満足に食べおおせないなんて。
洗って、ちぎって、トマトやキュウリを切って。
ドレッシングをかけるたけで食べられるのに、腐らせてしまうなんて。
恥ずかしくて、情けなくて、胸が締め付けられました。
悔しくて、涙すら出ませんでした。
 
5年ほど前、ひとり暮らしを始めた頃のことです。
あの頃、我が家の玄関をくぐり抜けた“生命あるもの”は
ほとんど全てといってよいほど、無残な姿に変貌しました。
まるで、私が触れたものはそばから腐っていく呪いにでもかかったようでした。
 
レタスやキャベツといったお野菜を腐らせるのはもちろん、
「毎日かき混ぜれば、100年だってもつ」という糠床は
ほんの3日でカビが生えました。
賞味期限があってないような梅干さえ、
ある朝、手に取るとカピカピに干からびていました。
 
それで良い、と思っていたわけではありません。
ひとつ、またひとつと生命が奪われるたびに
物言わぬ彼らから責められているような心地がしました。
「お前のせいで、お前が全うな人間だったならば……」
 
あの頃の私は、長らくこじらせていた恋を失くし、立ち直る方法を模索していました。
仕事も思うように運ばず、怒られてばかり、自己嫌悪に陥る日々。
おまけに転勤先のひとり暮らしとあって、心許せる友もいない。
心ががんじがらめになっていました。
ただのゴミとなってしまった物たちの姿に、自分を重ねていたのかもしれません。
 
「健全な精神は、健全な身体にこそ宿る」
その言葉を信じて、食生活を見直そうと思うも、結局は同じことの繰り返し。
自分のダメさ加減に嫌気が差して、
次第に“腐るもの”を家の中に置かないようになりました。
 
食事は基本的に外で済ませる。
家の中には、ジャンクフードとお酒、お水しか置かない。
おかげで台所が荒れることも
死体安置所のような冷蔵庫を見ることもなくなり
心は少し、落ち着きました。
 
けれど、それとは正反対に、私の身体はどんどん醜くなります。
毎朝、胃のムカつきに耐えかねて目が覚め
洗面所の鏡にうつる顔は、むくみでパンパン。
吹き出物で常に顔のどこかに膿が溜まり
体重は天井知らずに増えていく。
 
“不健康”が服を着て歩いているようなものだな……
通勤中、建物のガラスにうつる自分の姿に
冷ややかな目線を投げかけていました。
 
一方で、自らの体型の変化は自覚していたものの
私がこんなに自暴自棄に暮らしていることは
他人には悟られていないだろう、と思っていました。
掃除や洗濯は苦にならない質です。
身に付けている物は清潔なのだから、
“それなりにちゃんとした人”という印象は、与えられているはずでした。
 
「たけしたさんってさ、ミサトさんみたいな部屋に住んでそうだよね」
 
ある夜、同業他社の人たちとの会食で、そんなことを言われました。
ミサトさんって、誰だろう……?
戸惑って返事が出来ないでいると、その中の1人がスマホを見せてくれました。
 
「エヴァンゲリオンに出てくる人ですよー!
仕事はちゃんとできる人なんですけど、とにかく酒好きで。
料理もできない、片付けも出来ない。
冷蔵庫にはビールだけが、ぐわぁーっと入ってるんです!」
 
そう、私が死神であることは、誰の目にも明らかだったのです。
誰も家に招いたことなどない、
冷蔵庫の何もかもを腐らせてしまうことを、一言だって話していない。
それなのに。
 
「冷蔵庫に入ってるビールの量は、確かに同じくらいですー!」
精一杯の作り笑顔でその場を取り繕いましたが、とてもやりきれませんでした。
酔っ払ってふと口にした事というのは、大抵の場合において本心です。
あの場にいた全員が「わかるー!」と声をあげて笑ったのですから、
ひた隠しにしていたつもりの短所が、誰の目にも明らかであることは
紛れもない事実なのでしょう。
 
残された道は2つ。
“ミサトさん”よろしく、とにかく仕事に邁進して成果を挙げるか。
あるいは、今度こそ“死神”を卒業すべく己と向き合うか。
 
「私だって、本当は、ちゃんと家でゴハンを作って
ちゃんと暮らしているよって胸を張りたいんだよぉ……」
 
帰宅した真っ暗な部屋の中で
ビールと水しか入っていないの冷蔵庫を見つめるうちに
涙がこぼれていました。
 
それから2ヶ月ほどでしょうか。
初心者向けの料理本やレシピサイトと首っ引きで
ひたすら自炊に打ち込む日々が続きました。
卵焼き、肉じゃが、ブリの照り焼き……
 
食材はかろうじて腐らせないようになりましたが、ここで新たな問題が浮上しました。
何を作っても、美味しくないのです。
どうやら私はおそろしく不器用で手際が悪いうえに、
本で指示されていることを理解するのに、人よりとても時間がかかるのが、原因のようでした。
 
たとえば、卵焼きを作るとしましょう。
卵をボウルに割りいれる
卵をほぐし、調味料を計って加える
フライパンに火を入れ、油をひく……
 
事前に全ての工程に目を通し、流れをイメージするにも関わらず
いざ調理を始めると、1つひとつ確認しながらでないと進められないのです。
調味料を最初に計っておけば良いのに、
卵をほぐし終わった後に、再度ページを開き、冒頭に示してある調味料の分量をはかる。
一事が万事この調子なので、
加熱し始めたらどんどん作業が間に合わなくなり、焦り、失敗する。
おまけに不器用なので、何かを混ぜたら型崩れし、こぼれる。
 
卵焼きになるはずだった煎り卵、
お醤油を加える前に干上がってしまった、肉じゃがになる予定だったなにか、
焦げ付いて真っ黒になったブリの照り焼き。
 
20年以上、台所に立つ母を見てきたのに
どうしてこんなに何も出来ないんだろう……
 
ご飯を作る、出来立てを食べる。
その行為が、いかに心を労わり、明日を生きる力を紡ぎ出すか。
その温かさと優しさを、母は食卓を通してずっとずっと、教えてくれていたのに。
 
やっぱり私は、ちゃんとした暮らしには縁がないんだ!
イライラが募っては、フライパンをシンクに投げ捨てたものです。
 
そんな時でした、あの本に出逢ったのは。
 
何とか私でも読み解ける、失敗せず作ることの出来るレシピ本は無いものか。
仕事が早く終わった日には、必ず書店に寄り
片っ端から立ち読みをしていました。
けれど、どれもこれも代わり映えしない、小難しいものばかりです。
 
すっかりやる気を削がれ、ふと目を下にやると
【料理エッセイ】という書棚がありました。
 
栗原はるみ、枝元なほみ、高山なおみ……テレビで見たことのある名前が並びます。
お料理が上手なだけじゃなくて、文章を書く才能もあるのか。
多才だなぁ、羨ましいなぁ。
何の気なしに眺めていると、ある背表紙が目に飛び込みました。
 
【忙しい日でも、おなかは空く。】
 
著者は、平松洋子。
代表作のタイトルにちなんで
「夜中にジャム煮る人だ」程度の認識しかありませんでしたが、
食べ物に関してのエッセイを書く人、というのは分かります。
 
「忙しい日でも、おなかは空く。」
はっきりと声に出すと、なんだかその一言に
私の想いが凝縮されているような気がしました。
そう、忙しい毎日でもおなかは空くし、それを優しく自分で満たしてあげたいんだよぉ!
すがるような気持ちで、ページをめくり、最初の項を読んでみることにしました。
 
【塩トマト】
 
切ったトマトに塩を振って、10分おくだけ。
それだけなのに、暑い夏の最中にはどれだけ大きな幸福がもたらされるか。
瑞々しく、目の前に画が浮かぶように描かれるのです。
 
「トマトに塩ふるだけでも、いいんだ……」
 
たったひとつの工程でも、料理になる。心のなぐさめになる。
私は救われた気持ちになりました。
これなら、これなら私も、自分の作った食べ物を、自分自身を、認めてあげられるかもしれない!
 
急ぎ買い求め、部屋に戻ると夢中で本を読みふけりました。
中には、私には到底手の届かない難しいレシピもありますが
ほとんどは、2回か3回手を動かせば、形になりそうなものばかりです。
簡単そうなのに、それらは全て、著者に大きな喜びと幸福を与えている……
 
あぁ、私はこういう、擦り切れた心を手なずける、手立てが欲しかったんだ!
あっという間に1冊を読み終え、
どうしても心に残った1品を作ってみることにしました。
 
【ささみのだしの卵スープ】
 
鍋にお湯を沸かして、ささみを放り込む。
15分ほど経ったら、酒と塩を入れ、溶き卵を加える。
 
いかに透き通った味で、味覚が清められる感覚を味わえるか。
味付けは塩だけで良い、忙しいときにこそ、と力説する文面に心が囚われたのです。
「清められる」という言葉が、大きく抜き出て見えました。
 
「極限まで、シンプルにしよう。
とにかく、スープさえとれたら、きっと何とかなる。何かが、きっと変わってくれる」
 
これまでの呪縛から解放されたい一心で、鍋に湯を沸かしました。
著者が「味付けは塩だけで良い」と言うのです。
酒も卵も入れないことにして、ボコボコと音を立てる鍋へ、ささみを沈めました。
 
そのまま待っていればスープが出来ると思っていたのですが、甘かったようです。
次から次へと、白いあぶくが浮いてくるのです。
手元にはささみを沈める時に使った菜箸しかありません。
 
「これ、アクだよね!?すくうんだよね!?」
ひとりで叫びながら、おたまを探します。
これだから、料理は嫌なんだよ! なんでアクが出るからすくうように、って書かないんだ!
悪態をつきながらも、言われたとおりの時間、ささみを茹でました。
 
火を止めて、肉を取り出しても、そこにはちょっと白く濁ったお湯があるだけです。
 
「これが本当に、あの“味覚が清められる”スープなんだろうか……」
 
もしこれを美味しいと感じられなかったら、私はどうなるんだろう。
これまでジャンクフードばかり食べた私には、もう味が分からないかもしれない。
猛烈な不安に苛まれながら、塩をひとつまみ。
そっと、おたまで中身をすくって、口へ運びました。
 
「味が、しない……」
お湯じゃないのは分かる、けれど、うすぼんやりとして、味はよく分かりません。
“味覚が清められる”心地がするという、透き通った旨味は一体、どこにあるのでしょう。
やっぱり、私には無理だったんだ……
 
「次で分からなかったら、諦めよう」
そう心に決めて、もう少しだけ塩を足しました。
 
こくり。
白濁したお湯を飲み込むと、奥のほうにかすかな、
でも確かに“味”と呼べる何かを見つけました。
これを、これを手繰り寄せられたなら!
ひとくち、またひとくちと手を動かします。
すると次第に、おぼろげだった味がこちらへ近づいてきました。
素朴だけれどあたたかい、子供の頃から何度も感じたことのある味。
ゆっくりと、熱がお腹のほうにおりていくのが分かります。
 
「お母さんのご飯と、同じ味がする……」
 
もちろん、私が飲んでいたのは
ささみを茹でただけの“お湯”ですから
家族のために日夜食事を拵える、母の料理と同じ味がするわけはありません。
けれど確かに、お腹が、心があたたまり
見失ってしまっていたかつての自分が、まだちゃんと自分の中にいてくれるのだ。
大丈夫、立ち直って、ちゃんとやっていけるようになる。
そう信じることのできる、味だったのです。
 
それからの毎日、私はいつもこの本を、目の届く場所に置いています。
私にとってはいまや「心の健康診断」のようなもので
どんなページが目に留まるかで、その時々の、心のお疲れ具合をはかっているのです。
7つも工程がある“けんちん汁”に挑んでみたくなったり、
ゴマを炒る道具“ほうろく”が欲しくなったりする時は、心が元気な証拠。
梅干番茶や、ミネラルウォーターに目がいく時は、
自覚していなくても、心がサワサワと落ち着かないのだと思っています。
 
おかげさまでこの数年は、雑貨のページに惹かれることも多く
“ちゃんとした暮らし”から、“丁寧な暮らし”へのステップアップか!?
などと、浮かれていることもあったのですが
なんだか最近はまた、塩トマトやささみスープといった
“最低限、自分を手なずける法”ばかりに目がいきます。
 
無理もありません、春からこっち、気が滅入るようなことが続いているのですから。
病に怯えて暮らしたり、思わぬ訃報に心がかき乱されたり。
人生はままなりません。
 
けれど大丈夫。私には、あのスープがある。
そう思うだけで、安心して、私のおなかはきょうも空くのです。
 
あなたの心は、知らぬ間に疲れてしまっていませんか?
おなかは、ちゃんと空いていますか?
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
竹下 優(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

生まれてこのかた福岡県から出たことのない、生粋の福岡人。
趣味は晩酌、特技は二度寝と千鳥足。

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2020-08-03 | Posted in 週刊READING LIFE vol.90

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